最近思ったこと (旧 オピニオンのページ)

Back to Homepage


個人の尊厳 個人の尊厳 - Follow 再び個人の尊厳
インバランス ご協力 なんのことでんねん
文盲 空いていてこその道 為すと成す
経済誌の効用 革底の靴 旅先はディズニィランド


個人の尊厳

 幾人かに個別に謝意を表そうと考えて,品物を送ってもらうためにあるデパートの売り場へ出向きました.これにアドレスを書き込んでくれと店員がスリップを数枚渡しますので,そのスリップに順次書き入れていますと,別の店員が横に来て,すでに書き終わったスリップを取り上げてそれに何か書き込み始めます.最初の店員はどこかへ行ってしまっていて,そこにはいません.
 こういうことはこの国では普通のことらしいんですが,大いに抵抗を感じます.最初の店員にアドレスを書き込んでくれと頼まれたわけですから,特に強く意識しているわけではないとしても,こちらはその店員が担当しているものと認識しています.書き上げたスリップはその店員に渡すべきものと思っているわけです.ところがそれを渡すという状況に至るまでに,担当者は入れ替わってしまっていて,そのことについて当方にいかなる示唆も無いし,「私が替わってあとを引き継ぎます」というような言葉も無いのです.日本人は集団で仕事をし,そこに個人というものが全く入らないという一例がこれでしょう.こういう状況はなんとも薄気味悪いですネエ
 他の国へ行くと,これとは正反対のことが多くて,それはそれで困ることもあります.例えば,郵便局で切手を買おうとしたとすると,たいていその窓口にはかなりの人数の行列;すぐ隣の小包の受付窓口はすいている;でも決してそこでは切手を売ってはくれない;というのが普通です.この国では幸いにも,他方の窓口の行列が長ければ,小包受付窓口の職員も切手を売ってくれますから,日本人はがら空きの小包受付窓口を横目に見ながら切手の列に並んでいることには耐えられないでしょう
 はやく片付くことが良いことだと単純に考える人が多いと想像しますが,こういうことの底流には,個人の尊厳というものをその社会がどう考えているか,ということと関わるなにかがあるのではないでしょうか. Bernardino Telesio



 上の 個人の尊厳 稿の意向はどういうことなのか分からないとのお葉書をいただきました.意を尽くしたつもりでしたが,不十分なところがあったようです.しかしながら,この文の内容を直感的に理解いただけない方があるからこそ,このような稿を草する意味もあると言えると思い,逆に意を強くしました.日本人一般の心情と異なることを述べていますので,すぐにお分かりいただけなくても,やむをえないことです.しかし,そうしたことが,対外的な摩擦を引き起こしている大きな原因となっており,この稿の意義がそこに見い出されるものと考えます.
 次の稿は上の稿と内容としては同じことを述べています.あわせて読んでいただければ,当方の言わんとするところをもう少し分かっていただけるでしょう.
 上稿の事件では本来の用件について何らかの不都合があったというわけではありません.そこでは 「こちらはその店員が担当しているものと認識しています」,「そこに個人というものが全く入らない」 というところで,当方の言わんとするところを読者に理解してもらえると思ったのですが,甘い考えであったようです.
 個人的な,かなり親密な間柄というのでなくて,ここに書いたような,店で物を買うといった,相手を充分知らない,一時的な関係であっても,日本以外のかなり多くの国では,それぞれが個人個人独立の,責任ある人間として,互いに対応するのが普通です.ある一つの所用が完結するまでは,個人的に見知った間柄の場合と同じように対応します.つまり,お互いに相手が誰であるかをよく知っている関係を一時的に結んでいると言ってもよいかもしれません.ここのところが日本とは異なると思われます.そういう関係が成立しているところでは,最初に依頼を受けたまま一方が消えてしまうというようなことは,失礼の極みですから,まず起こり得ません.次稿の三つの例はまた違う状況なのですが,そうした一時的親密関係にある二人の中に他人が割り込むということであり,三つとも同じです.我が国以外では一般には許される行為ではありません.
 かくて,個人の尊厳が軽視されたのは,ここで売場へ出向いた人であるわけですが,実はそれだけではなくて,個人として全く「顔」というものがない店員についても,そういう社会的環境に置かれているという点で,明らかに個人の尊厳が侵されているのです. Bernardino Telesio



再び個人の尊厳

 1) 人間ドックの検査を受けにある医療センターに行きました.カウンターで受付の手続きをしていますと,ちょっと双方の会話が途切れたあいだに,当方の用件はまだ済んでいないのに,後ろから誰かが背中越しに書類を差し入れてきます.手続きをしてくれというのでしょう.

 2) 駅で新幹線に乗るための切符を窓口で買います.金額が大きいのでどうしてもお釣りをもらうことになります.そのお釣りをまだ貰い終わってもいないのに.横背後から,「博多二枚」 などという声とともに札を握った腕が伸びてきます.こちらはまだ窓口の正面にいますし,お釣りの額に間違いがないかも気がかりなのですが.

 3) 名古屋市の地下鉄の駅の比較的新しいところでは,自動改札のゲイトが数箇所あって,職員のいる通路はただ一箇所です.たいていの場合自動改札のゲイトで済みますから,職員のいる通路を通ることはほとんどありませんが,たまには回数券を買うというような用件でそこへ行くことがあります.そうしたとき驚くべきことに,職員がいま応対していて,人がそのゲイトに立っているにもかかわらず,職員の方に切符を投げるがごとくに渡して,人が立っているゲイトの残りのわずかな空間をすり抜けて出て行く人がいるんです.これは決して特殊なことではないらしく,職員もそうして切符を受け取って平気な顔です.こちらの用件は,いくぶん中断をはさみながらも,なんとか処理されはしますが.

 権利とは言わぬまでも,先にいる人の持ち時間はその人のものであって,大切に扱うべきものであると考える人間もいます.上述のような行為に出て,それでなんら差しつかえないと思う人はきっとマルチタスク人ともいうべき先端的な人なんでしょう.それをどこかおかしいと思う人間をマルチタスク人はシングルタスクの時代遅れ人と呼んで蔑むのでしょうか.侵してはならないものもあるでしょうに. Bernardino Telesio



インバランス

 日曜日の昼少し前にあるお宅を訪問しました.そこの息子さんが自分の車を洗って,それにワックスをかけています.車はもうピカピカです.この国でひろく見られる光景です.お宅に伺って早々に失礼なことながら,ご不浄を拝借しました.かなりの年数を経たお宅でしたから,手洗いの水タンクにつながっているニッケル鍍金のパイプが灰緑色に錆びてブツブツが出ています.
 このニッケル鍍金のパイプをそこにある自動車用のワックスで磨けば,車と同じようにピカピカになるでしょう.水周りの金属,つまり水道の蛇口やそれらにつながる配管は銀色に光ります.
 車をきれいにしておくのと,生活の快適さを維持するために住居の個々の状態を整えるのと,どちらが大事かは人それぞれでしょう.けれども,車にワックスをかけるということは自明のことなのに,屋内の金属パイプを磨くという発想が完全に欠落していることを,バランス感覚の欠如と指摘しておきます. Bernardino Telesio

 * なお,Unbalance は名詞形では精神的不安定の意味であり,不均衡をいうときには Imbalance が正しい.



ご協力

 「小牧ジャンクションから栗東まで名神高速道路のリフレッシュ工事を致しますのでご協力ください」 とラジオから流れて来ました.おもわず,「エッ,我々も道路工事にボランティアで駆り出されるの」 と身を起こしてしまいました.
 多分,ある時間帯で通行止めになる,工事をしているところでは速度規制がなされている,あるいは,路肩が狭くなっている,渋滞などが生じるかもしれないというようなことで,「辛抱してくれ」,「予め諒解してくれ」,ということだと想像されます.しかし,「協力する」 という言葉の本来の意味はこの場合には,労力を提供するか,もしくは金を出すということになりましょう.少なくとも「ご協力ください」と言われたとき,「じゃあ,何をすればいいの」という質問になるわけですが,その答えが「辛抱してくれ」 ということにはならないでしょう.「協力」 という言葉には積極的な行動,あるいは,出すべきものは出す,ということが含意としてあり,「辛抱」 は消極的にすぎましょう.
 最近諸外国との間でしばしば起こる摩擦も,このように言葉を厳密に選ばないとういうことに由来していると思えてなりません.言葉が発せられたときの重みが無くなって来て,何事もうわの空,それを聞くのは自分に得になるときだけ,というような風潮になって来ていますが,お役所のようなところも,あとで叱られないようにとりあえず何か言っておこうと,安易なアナウンスに走るのは残念です. Bernardino Telesio



なんのことでんねん

 ちょっと,ちょっと,そこの名古屋のおかた.「名駅」 て,これどう読んだらよろしょまんねん.
これ,「名古屋駅」 を縮めて言うてはるんかと思たら,地名なんやて.あんた,縮めてる言うたかて,「とうきょうえき」や 「おおさかえき」 より 「なごやえき」 のほうがしゃべっても短こぅまっせ.縮めることないんやおまへんか.名古屋のお人は 「東京駅」 のことを 「東駅」 言わはりまんねやろか.
 駅の名前を縮めはったもんやちゅうのに,それが駅のことやのうて,どっかその辺のところ番地やて,これいったいどうなってまんねん.それにこの縮め方,「阪大」 なんかの縮め方に較べると最低としか言えまへんな. 河内人



文盲

 わたし,最近インドから来た者なんですけど,ようやくちょっとだけ日本語ができるようになりました.けど,書いてあることを正確に読めているのかどうか毎日不安になるんです.
 駅の前を通りますと 「ここに自転車を置かないでください」,「駐輪禁止」 などと書いてあるとわたしは思うんですけど,そこにかぎって自転車たくさん置いてあるからなんです.
 インドでは字の読めない人がまだたくさんいて,識字率が低いのですが,日本には文盲は皆無だと聞いていました.でも,来てみると文盲はたくさんいて,インドと一緒だと思います.わたし日本語がまだ読めていないのでしょうか. Mohandas Karamchand



空いていてこその道

 我が国では道路に車が混んで,交通が渋滞することは日常茶飯事で,「自然渋滞」 というような言葉すらも,何の疑いもなく,毎日,テレヴィやラジオの交通情報で使われています.道は人が作って、人が使っているものですから、渋滞はいかなる場合においても 「人工的」 であります。こうしたことが正常ではないことを一体どれだけ多くの人達が認識しているでしょうか.
 これと比較するための対象としていま電力を挙げます.夏のピーク時に電力が不足したとすると,どういうことになるでしょう.もちろん,あちこち停電になって,電力会社は非難ごうごうということになると思います.社長は平謝りに謝るよりないでしょう.発電設備は使用量の最大値を賄えるように,予め用意されていなければなりません.一刻も不足は許されないのです.
 需要を予測して,それに見合う設備が用意されなければならないのは道路だって同じことではないでしょうか.時期や時間帯によって負荷が極端に大きく変わるという点でもよく似ています.もちろん,両者ともに社会の基本的なインフラストラクチュアに分類されるところのものです.
 電力会社の肩を持つわけではありませんが,不足という事態が生じたとき,電力は叱られ,道路は 「自然渋滞」 などと言って澄ましていられるのはどうしてなのでしょう.誰か叱られなければならない人がいるのではないですか.



為すと成す

 学長選挙の候補者応援キャンペーンでまわって来た E-mail のなかに以下のような記述がありました.

 > 1961年、44才にしてアメリカ合衆国大統領に就任した J. F. Kennedy はその有名な演説の中で国民にこのように訴えました。
 > "My fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country". 
 > この学長選挙で私たちは今まさに問いかけたいと思います。「次期学長が何をしてくれるのかではない、自らが名工大のために何を成しえるのか」

 ここでは 「成し」 ではなくて,せめて 「為し」 でしょう.いくら成果を問う時代とはいえ,達成のみが問われるのでしょうか.ひとの為した行為がある達成に至ったかどうかの評価には,たいていの場合,そのひとの一生より長い時間を要していることは歴史をひもとけば自明のことです.
 「その有名な演説の中で」 というところも諒解しかねます.文意からみて,その後に出てくるフレーズそのものが有名,もしくは,そのフレーズを含む演説が有名なのでしょうから,「その」 はその段階でまだ特定されていません.あるいは 「その」 が Kennedy をさすのであれば,そこは「彼の」でしょう.



経済誌の効用

 ときどきだが,新幹線に乗る前に経済誌を買う.週刊東洋経済,エコノミスト,ダイアモンドの類である.窓から外をぼんやりと眺めたり,買った経済誌を読んだり,たまにはいねむりをしたりしていると目的地に着く.経済誌に出ている現状認識,予測,批判などそれぞれについて,読みごたえがあるもの,そんなこと素人でも分かるだろうというもの,いま何々が問われていると常句,決まり文句で結んでいるだけにすぎないものなど,記事は玉石混交である.経済週刊誌は通常の週刊誌に較べて高価であるうえ厚さが半分くらいしかない.一般的に評価すれば出した金額に見合う中味とは言えない.それでもある程度の発行部数があるようだから,比較的富裕な層が読者なのであろう.

 しかし別の楽しみのことを思うと高価ではないのかもしれない.家を出るときに,一年くらい前のものをひとつふたつ引き抜いて持って行き,それを車内で読む.その週に発行されたものが側にあってもなくても,それはどちらでもよい.過去の記事を読む,これが実に興味深い.現在どのようなことになっているかは,専門家ではないので抜けているところは多々あるのだが,毎日の新聞でおおまかに把握している.記事の内容を現状と較べれば,書き手の思考形態,書き手の将来を見通す眼力などがそのまま見える.これを何回か繰り返しているとさらに評価が容易になる.自分の予測が外れたことなど意に介さず,つぎつぎと別の論調へ移っていく人がいるかと思えば,その一方で,なかなか鋭い,そのとおりになっているではないかという人もいないわけではない.先の考えと現実とが乖離したと述べ,その理由を説明してから次の論旨を立てるという立派な人も,僅かではあるが,おられる.それにしても経済誌では書き手の人間そのものがあからさまになる.よくも書き手が続くものだ.

 過去のそれを見てニヤニヤする楽しみを維持するには今週号も買わねばなるまい.来年の今ごろのために.

 論壇時評というようなものも日曜日の新聞に掲載される.そこで取り上げられるのはせいぜいそれ以前一箇月くらいのあいだに発せられた意見である.これを一年遅れで読めばきっと興味はつきないであろう.かって,夏の大掃除は恒例であって,畳すべてを天日干し.床板には前年撒いた殺虫剤 BHC の白い粉末にまみれて敷かれた新聞紙,それを蹲って読んでいてなんども親に叱られた,そのときそこにあった誘惑を思い出す.



革底の靴

 四ヶ月ばかり,ほぼ月に一回,国際会議に参加するということが続いた.海外に行くときには,できるだけ手荷物を少なくするということが原則なので,靴はできれば履いているもの一足,やむをえない場合にのみ,トランクに別の一足を入れ,合わせて二足ということにしている.旅行中には雨も降るから,僅かな水溜まりを歩いただけで底から水が滲み込むという靴を履いていくことはできず,自ずと底がゴムでできていて,甲皮と底の境目がシールされているものが候補になる.このところずっと,学会のセッションでも通用するよう,ゴム底,黒のウイングチップを一足目に選んでいる.

 四ヶ月経ち,一連の学会はすべて終了した.初夏だったのにすでに秋になっている.もともとからある革底のウイングチップを出して履くと,気分が違う.こちらのほうがシャキッとする.その感覚をしばらく忘れていたことに自分ながら少し恥ずかしかった.世間ではウォーキングシューズが全盛のもよう.須賀敦子の書籍に「ユルスナールの靴」というのがあった.靴をイージィに流しても生活は続けられるが,その結果はどうだろうか.



旅先はディズニィランド

 国際会議に出席するときには,日本語で書かれている観光案内書も一冊は買って行く.ドイツの案内書を買ったときには気づかなかったのだが,「アメリカ西海岸」 のガイドブックを買いに行ってすっかりあてられてしまった.どれもこれも,書店に並んでいるもののすべてがエンタテイメント指向であり,ガイドブックの中ではアメリカ西海岸全体が遊園地になっていたのである.我が国旅行者の意向としては,大半がそれであるからであろうが,日本人もずいぶんと享楽的になったものだと改めて思い知らされた.

 かつて 「地球の歩き方」 といえば Diamond Student Tours.小田実の 「何でもみてやろう」 精神から発した,一日あたり五千円で外国旅行を続けるための支援情報が掲載されている Guidebook として,その善し悪しは別として,そのなかにひとつの若者文化が構築されていた.いまは 「地球の歩き方」 も表向きだけ Rich な人向けのディズニィランド案内になっている.

 "Let's Go" という Budget travel 向きの旅行案内書がある.ある時期,和訳本も出ていたが,いまは和訳本は見当たらない.Harvard の学生が執筆しているとのうたい文句で,宿泊施設の案内はいまも Youth Hostel, Private Room, そういうものがない場合に格安の Hotel, のみが出ている.食事をするところについても,まず出てくるのは大学の学生食堂 Mensa である.Jazz Club や Gay Bar の情報などは結構詳しく出ているし,Counterculture についても詳しい.政治的な批判も濃く,Radical である.しかしそこに,解決されていない問題の指摘や広範な主張が読み取れる.読んでいて考えさせられることが多く,鬱陶しさとともに,なつかしさ,楽しさをしばしばそこに見いだし,行ってみようという気持が湧く.ディズニィランドへというのではなく.


Back to Homepage