-- 2005 年 8 月 9 日付 "Frankfurter Allgemeine Zeitung" の文芸欄 Feuilleton 最終面に出た Firma Topf & Söhne の記事 --


Der Gleichmut der Ofenbauer - Mit größerer Brennkapazität: Die Erfurter Firma Topf & Söhne lieferte die Öfen für Auschwitz / von Iris Hanika

Über Auschwitz zu sprechen ist schwer. Das hat sein Gutes, weil es einem stets klar vor Augen hält, daß Auschwitz außerhalb dessen liegt, was . . . . .


焼却炉を開発した企業とそこの人たちの平静さ
さらなる焼却能力,焼却量の拡大:Erfurt の Topf & Söhne 社が Auschwitz に焼却炉を納めた

 Auschwitz について語るのはつらいことである.しかし悪いことばかりではない.人の仕業とはとうてい思えないことを Auschwitz が見せつけるという効用もある.けれどもそのとき Wittgenstein と折り合いをつけて,黙ったままなんてことはできない."Schoa" ("große Katastrophe", "Holocaust") について触れないわけにはいかないからである.この避けて通れない話をより身近なものにするには,例えば虐殺の道具というようなものを取りあげて,具体的な話をするのがよい.こうした事柄に関してはまず単語ありきで,「火掻棒」,「送風機」,「屍体焼却炉」,「二連筒式マッフル炉」 などがそれに相当する.

 もちろん別注の火掻棒とあわせて,Auschwitz の炉は Erfurt の Topf & Söhne という会社で製造された.それに加えて,換気/送風装置も彼らは製造した.この装置はガス室での大量虐殺を速やかに繰り返し行えるようにするのに欠かせぬものであった.それができて,特殊任務被拘留者が屍体を引き出し,それから金歯を剥ぎ取り,頭髪を刈り取ったあと,三連筒式マッフル炉へ投入し,焼却する,という手順も可能なものになった.

 ビール醸造親方であった Johann Andreas Topf により Topf & Söhne 社は燃焼装置製造会社として 1878 年に創立された.第一次世界大戦前はビール醸造用麦芽製造装置をつくる世界でもトップクラスの会社のひとつであった.主に圧力容器,煙突,サイロ,送風機を製造していたのだが,1914 年からは市町村の火葬場設備も作るようになった.この部門で Topf はまもなく市場をリードするようになったが,その事業は全体の売上高からみればほんの一部分でしかなかった.会社の創業者は 1891 年に亡くなり,息子の Ludwig がその企業を引き継いで,J. A. Topf & Söhne という名の下に会社を発展させた.彼が 1914 年に 51 歳で早世するまでにはすでに 500 人以上の人員を抱えるまでになっていた.ヴァイマール共和国時代には Ludwig Topf が任命した社長によって会社は運営されていた.Ludwig のふたりの息子,すなわち 1903 年生まれの Ludwig と 1904 年生まれの Ernst-Wolfgang は 1920 年代の終わりに従業員としてその会社に加わった.その後すぐ世界経済恐慌のあおりで彼らの会社は決済不能へと追い込まれた.1933 年 4 月末に彼ら兄弟は国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, ナチ党) に入党した.会社がドイツ労働戦線に加盟したとき,兄弟は 「企業指導者」 に任命された.そして 1935 年に合資会社に衣替えしたときに兄弟は共同出資の経営責任者になった.売り上げは再び伸び,とりわけサイロ建設がそれに貢献した.1938 年に会社の 60 周年記念日を迎え,そのときの追想録には,時代の精神を写して,「我々の会社はその創業時からして 「資本」 の名付け親であっただけではなく,すでに発明心と創造の喜び,有能さにあふれていた」 とあり,その次年には Topf & Söhne は 1150 人もの人員を擁していた.

 戦争が始まってからは強制収容所へ入ってくる囚人の数が増えた.1939 年冬に Buchenbald において赤痢で多くの囚人が死んだ.そのとき,Weimar の火葬場は強制収容所から焼却のために持ち込まれた屍体数をさばき切れなかった.Erfurt は Weimar からそれほど遠からぬところにあり,Topf & Söhne はそのとき初めて,農場での動物屍体焼却処分用の移動式火葬炉をナチ親衛隊 SS に一基納めることになった.この炉は Topf & Söhne に雇われていた技術者 Kurt Prüfer が 1939 年 3 月に設計開発していたものであったが,ひょっとしたら,ナチ親衛隊 SS の指示がそのときすでにあったのかもしれない.そのあと個別の受注で Kurt Prüfer は可動式二連筒マッフル炉を設計開発した.後年,固定式の炉が設けられたあとでも,収容所の屍体数が急激に増えたときにはこの可動炉がまた使われた.

 こうした注文の遂行を通じて,ナチ親衛隊 SS との共同作業が始まり,1941 年までにはこの会社の二種類の炉はあちこちの強制収容所に普及して行った.「二連筒式マッフル炉」 は初期段階では既製品の可動式の炉であった.それを壁埋込式に転用することもできた.それが発展して固定式の本格的な炉ができた.後者の固定式の場合には,個々の部品が収容所内に持ち込まれ,現地で組み立てられた.これら両形式の炉は,収容所以外の火葬場のそれとは著しく仕様の異なるものであった.収容所内では死者はひとりひとり棺に入れられてから焼かれるのではなかった.それゆえこのような炉では燃焼室の蓋は小さくて済み,屍体は火炎に直に曝された.その上,通常なら必要とされる,炎と燃焼室壁との間の遮熱をはかる必要が無かった.収容所外の火葬場では,無煙かつ無臭の燃焼を目指していることもあって,充分な酸素供給が肝要であり,亡骸の完全な灰化までに時間もかかったが,収容所の屍体処理ではそうしたことは問題にならない些細なことに過ぎなかった.そこでは迅速さと燃料の節約が重視された.それゆえ屍体は白い灰まで燃え切ることなく,黒い煙と煤煙,悪臭がいつも漂った.

 Berlin のユダヤ博物館で,9 月 18 日まで,Topf & Söhne についての特別展が開催されており,その付帯出版物,Begleitband, Accompanying Book に上記のように記されている.この特別展はそのあと Erfurt や Auschwitz でも開催されることになっている.「最終解決, "Final Solution" へのエンジニアたち,Techniker der »Endlösung«」 と題するこの展示は Buchenbald 記念施設で練り上げられたものであり,あらゆる観点からして注目すべき展示である.この会社の歴史を見て行くと息をのむことになるのは,Topf & Söhne 社が自社製品をそもそも強制収容所へ納めたということによるのではない.他のいくつかの会社でもまたその製品が殺戮用装置の機能を果たすのに寄与したという例はいくつもある.しかし彼らは一般用に生産している品を納めた.殺虫剤とか不変色インキなどである.しかし Topf & Söhne はまさに Auschwitz のための炉をわざわざ設計開発したのである.しかもそれは輝かしい成功をおさめた.例えば,1941 年 11 月 4 日に Topf & Söhne 社は武装親衛隊 Waffen-SS 建設局に,Auschwitz のための,屍体投入装置付加圧空気式三連筒マッフル焼却炉五セット,屍体移送装置五セットおよびごみ焼却炉一基という注文を確かに請け負ったことを証している.その施工に関しては次のように謳われている.「言及しておきたいのは,炉の焼却灰化燃焼室がこのたびは従来の炉と較べてさらに大きく設計されているということです.それによってさらに高い性能を得たいと考えております」 と.しかしその段階では 「死の大食らい挽臼」 と言える規模にはいまだ届いていなかった.1943 年の春には Auschwitz-Birkenau で追加の三連筒式マッフル焼却炉十基,ならびに八連筒式マッフル焼却炉二基が稼働するに至るのである.

 エンジニアや企業経営者が特別に熱心なナチズム信奉者あるいは反ユダヤ主義者であったという指摘はない.むしろ彼らは Auschwitz でそれが必要とされたという理由だけで炉をつくったのは明らかである.通常の火葬場なら最大でも一日に五人の亡骸を火葬にすればよかったのに,そこではそうではなく数千もあったのであり,またそれが何年にもわたったのだからというのがその理由であるにすぎない.

 ナチス時代を通じて,炉の設計開発,製造,納入が社外秘となっていたわけではない.戦争が終わって初めて,そこに勤めていた人たちは自分たちは何も知らなかったと言い張るようになった.しかし,Topf & Söhne の組立工たちはあるときには何ヶ月にもわたって Auschwitz にいたし, ナチ親衛隊 SS の言語統制にそったのだろうが,日課票には 「脱衣室」 で働いていたとし,「屍体置場」 で働いていたとは書かなかった.それがゆえにその部屋が何のためのものかを知らなかったはずがないのである.技師長 Prüfer と彼の上司 Ludwig Topf は自分たち作った装置が試運転されるときには Erfurt から Auschwitz へ赴きそれに立会っていた.その試運転とは欠落なき殺害プロセスを意味していた.ガス室での大量殺戮後の通風装置テスト,引き続き炉で屍体を焼却するというテストなどであったから,その趣旨は把握されていたはずである.Kurt Prüfer は炉の設計開発を担当し,1941 年からは新しくできた特殊炉建造部の部長になった.同僚の Fritz Sander は功名心にかられて特別に高性能な炉を設計し,後にそれの特許を請求している.その炉でなら,二日間加熱した後は,新たに燃料を投入せずとも屍体を焼却することができるはずであった.Prüfer はそうした機能には疑問をいだいており,巨大な炉をよそに別のコンセプトに基づく設計で追い上げていた.

 ナチ親衛隊 SS の注文は Topf & Söhne の総売上高の 2 パーセント以上となることはなかった.Prüfer は自分が担当した業務からあがる税込売上高の 2 パーセントを報奨金としてもらっていたが,それでも世界経済恐慌前に較べて稼ぎは少なく,それを理由に 1941 年 2 月に退職を願い出た.そのとき Topf 兄弟は 「貴殿は緊急任務に就いているということをご自分で最もよくご存知のはずである」 と言って退職をおしとどめ,24 Reichsmark たる 5.6 パーセントの割増給与で納得させた.

 それにしても,Buchenbald, Dachau, Mauthausen, Gusen, Auschwitz に炉を納入した Topf & Söhne 社はナチ親衛隊 SS 唯一の下請業者であったわけではない.例えば Berlin の Heinrich Kori GmbH はとりわけ Sachenhausen, Bergen-Belsen, Radensbrück, Majdanek に,また Dachau にさえも,別の仕様であるけれども,炉を納めている.Topf & Söhne 社がナチ親衛隊 SS との共同作業で炉を製造したことは常によく知られていた.とにもかくにもそれぞれの炉に会社の商標ロゴが燦然と輝いていたからである.終戦後,指導的であった四人の従業員が逮捕された.Fritz Sander は 1946 年 3 月に死に,他はソビエトにより 25 年の刑務所送りを言い渡された.Kurt Prüfer は 1952 年にそこで死んだ.Ludwig Topf は,通常の炉を納入しただけだと言明するよう,また収容所での疫病などのひどい事柄をくい止めたと言うよう 1945 年 4 月 27 日に経営委員会から厳しい言語統制を言い渡された.逮捕が予想され,「逮捕されたらきっと不当なひどい目にあわされる.私は意志をもって行動してきたし,意図して悪いことをしたことは一度もないが,他の人は私に悪いことをするに違いない」 と言い,1945 年 5 月 31 日に自ら命を絶った.弟の Ernst-Wolfgang は Wiesbaden に炉製造会社を新たにつくったが,その会社は 1963 年に倒産した.Erfurt にある工場は火葬設備をそれ以降製造したことはないが,VEB Erfurt 麦芽および貯蔵槽製造会社としてその後も続いた.1993 年にはその会社は民営化されたが,1996 年に破産した.工場敷地跡は 2003 年末に永久保存施設となり,Erfurt 市は当時の管理棟を買い取る計画であると言う.
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