鑑定にのぞむ大学人の心がまえ
交通事故の鑑定を想定し,鑑定にのぞむ際の大学人の心がまえについて考えるところを記す.* すでに大学から退職し,自由な身になっているけれでも.ここに述べた考えは変わらない.
鑑定を職業とする場合と大学に籍をおく者が鑑定を依頼される場合とでは,鑑定にのぞむ際の心がまえに根本的な差があると思う.工学的な鑑定を,不動産鑑定士がそうであるように,それを職業とする人が行なう場合もあると聞くが,大学に籍をおくものが引き受けた場合にはそれとは事情が異なる.
大学人が鑑定人となるときには,中立の立場に立っているということが期待されているのはもちろんであるが,それを職業としているわけではないところに本質的な意義があろう.つまり,控訴人,被控訴人,双方の弁護士,裁判官,これらすべては当事者か職業上の関係者なのである.大学人が鑑定人となるとき,鑑定人はひとりそういう範疇には入らない.それゆえになにものにも拘束されずに意見を述べることができる.
大学に身を置くものは,研究者として評価されている本来の専門学問分野を持つというのが普通である.ある学問分野に未知の部分があり,その人がその未知のある部分の解明に取り組んでいるというのがその研究者の専門というものである.専門とする内容についてなら,世界中の同分野の研究者と対等に議論ができる,それがあってその人は専門家なのである.
交通事故の鑑定には物理現象を深く見通すという能力が必要ではあるが,事故の態様を机上で再現するに必要なのは,高等学校か大学の初歩の物理学の知識であって,それ以上のものが多く必要とされるわけではない.そこで援用される知識のほとんどは昔から知られているものである.大学にいる者が今後とも研究の対象とするほどに一般性のある,共通の,未知の物理現象が個々の交通事故のなかにあるわけではない.事故の鑑定では,わずかに過去の実験データが参照されるが,事故の発生態様について,学問的に普遍的な知見というものがいま現在でも蓄積されているというものではない.本来,交通事故の専門家というものは存在するわけはないし,まして大学にいるわけはない.大学で研究するほどに現象として未知の事項が交通事故の中にもしあるなら,それの解明はてごわい内容であるに違いなく,それには多年を要するであろう.鑑定結果は容易には出ないことになる.
越えるべき未知の研究課題というものがないから,交通事故の机上での再現ということは本来学問として成立し得ないものである.個々の交通事故に関連する現象に近い分野は多々あって,そうした分野の研究者を大学に見い出すことはできる.しかし,交通事故の机上再現を専らとして,研究者生命が維持された例を見ない.当人は自分を研究者と思っているかもしれないが,意のある人からの評価はない.
大学人としては自分自身の専門分野を持って,それを下地にして,余技として交通事故の鑑定をするということにならざるを得ない.研究者として,自己の専門分野で学術的な実績を持たない大学人が鑑定しても,本質的に大学人の鑑定というものが持つはずの意義は出ないであろう.上述のように,鑑定にあたって援用される知識は初歩の物理学であるから,特定の人にしか鑑定ができないわけではなく,大学の理工学系の学科を卒業しているならほとんど誰にでもできる.しかし大学人に依頼されているときには,そこで援用されている知識以上に,現象の本質をつかむ洞察力や,ことにあたる際の大学人としての,あるいは研究者としての,見識と品格,さらには真理への憧憬と謙虚さ,が期待されているものと承知する.
つぎには,鑑定人は鑑定書の中だけで責任ある活動を締めくくられるべきものである.事件に関係した残されている記録を工学という側面から見て,事故の経緯がどのように解釈できるかを考え,その最も合理的な解釈とはどのようなものであるかを示すということが工学としての鑑定である.事件の記録のうち,道路の配置,車輌の損傷状況,残された痕跡のような,工学の根拠になりうる事柄を取り上げ,それらのあいだで相互に矛盾しない,整合性のある事故態様を呈示することであると言い換えてもよい.鑑定人の役割は事故が生じた理由を工学的視点で述べることにある.仮に鑑定結果に供述調書の記述と矛盾するところが出ても,それはやむをえないことで,その差異についての評価は裁判所に委ねるという立場をとるよりない.事件となっている事故がどのように起こったのかが自分の頭の中で矛盾なく記述できたとき,大学人としての鑑定の仕事はそこで終わる.鑑定書はそれを言葉や図にして呈示したものである.
そこには数値としてはおおまかな値しか挙げられないこともある.けれどもその事故でどういう関連の車輌や運転者がどういう経緯をたどったかが明らかにされていればそれでよい.おおまかな値しか挙げられないときに,それ以上細かい数値を挙げないのも正確を期すが故である.さらには,尋ねられれば「不確定である」というよりないこともその中にはしばしばある.しかし,不確定であることを「不確定である」と述べることに躊躇はない.不確定な部分があろうとも,おおまかな値が挙っていて,事故の態様そのものが狂わなければ,反転させようのない判断がなされているのである.つまり,鑑定書の中でその事故の態様が明らかにされているかどうかが重要であって,明らかになっていれば鑑定書として成立する.その段階で工学の側面から得られる態様は既知として呈示されるわけであるから,争点に対してそれをどう取り込むかを次に判断するのが当事者の仕事である.
その鑑定の内容によって紛争中の一方に多大な責任が課されることになるから,そのことを考えて鑑定せよと鑑定人に迫るのは誤りである.そういうことを考えなくても済むが故に工学という分野に身を置いているのである.それぞれに役割を分担するような仕組みになっている.工学鑑定はその役割のひとつであり,それ以下であるならもともと不要であるが,逆にそれ以上であってはならない.限定的であるがゆえに機能するということではなかろうか.
平成 5 年 1 月以降に提出した鑑定書は以下のとおり.
提出先 提出日 事件 松山地裁 民事第一部 平成 5 年 1 月 9 日 昭和 63 年 (ワ) 第 574 号 名古屋地裁 刑事第三部 平成 5 年 6 月 21 日 平成 2 年 (わ) 第 683 号 大分地裁 日田支部 平成 6 年 7 月 4 日 平成元年 (ワ) 第 26 号 名古屋高裁 刑事第一部 平成 6 年 8 月 9 日 平成 5 年 (う) 第 238 号 大阪地裁 第 20 民事部 平成 6 年 12 月 6 日 平成 6 年 (ワ) 第 9223 号 名古屋簡裁 刑事部 平成 6 年 12 月 12 日 平成 5 年 (ろ) 第 192 号 富山地裁 高岡支部 平成 8 年 2 月 29 日 平成 6 年 (ワ) 第 238 号 松山地裁 民事第一部 平成 8 年 6 月 11 日 平成 5 年 (ワ) 第 63 号 名古屋高裁 金沢支部 第一部 平成 8 年 11 月 5 日 平成 7 年 (ネ) 第 87 号 名古屋地裁 民事第三部 平成 9 年 5 月 6 日 平成 4 年 (ワ) 第 3492 号 静岡地裁 民事第一部 平成 9 年 8 月 25 日 平成 8 年 (ワ) 第 40, 51 号 名古屋高裁 金沢支部 第二部 平成 10 年 1 月 20 日 平成 7 年 (う) 第 87 号 福岡高裁 第四民事部 平成 10 年 9 月 1 日 平成 9 年 (ネ) 第 942.1154 号 松山地裁 民事第一部 平成 10 年 12 月 19 日 平成 8 年 (ワ) 第 95 号 京都地裁 第四民事部 平成 11 年 1 月 4 日 平成 9 年 (ワ) 第 2284 号 高松地裁 民事部 1 係 平成 11 年 1 月 18 日 平成 9 年 (ワ) 第 267 号 水戸地裁 刑事部 平成 11 年 9 月 25 日 平成 8 年 (わ) 第 883 号 松山地裁 民事第一部 平成 11 年 12 月 27 日 平成 9 年 (ワ) 第 389 号 大阪高裁 第 13 民事部 平成 14 年 9 月 30 日 平成 12 年 (ネ) 第 1152 号 名古屋高裁 民事第 2 部 平成 14 年 10 月 15 日 平成 12 年 (ネ) 第 309 号 静岡地裁 富士支部 民事部 平成 15 年 1 月 30 日 平成 11 年 (ワ) 第 64 号 * 差し障りがあるといけないと考え,最近のものをリストアップすることを避けた.
出廷したときの証人の宣誓は以下のとおり.
「宣誓 良心に従って真実を述べ,何事も隠さず,偽りを述べないことを誓います.」
毎回というわけではないが,鑑定書とか意見書とかを提出したあと,鑑定人尋問なり,証人尋問なりが設定され,出廷することがある.そのときの最初の局面が上の宣誓である.この文面が既に印刷され,その紙に署名捺印しなければならない.けれども,厳密に解釈すればするほど,そこの「何事も隠さず」というところが気持ちの上ですっきりしない.それがなければ何の問題もない.大学に席をおく研究者であれば,いま現在,他の人がまだ解明しているはずはないという知見いくつかを自分の中に保持しているし,時にはある企業の企業秘密を握っていることもある.「何事も隠さず」というのはまずそういうところに抵触する.次に,鑑定書とか意見書とかを出したということは,その文面,そこにある趣旨,論理展開に対して責任を負っているのであって,それ以外のところで何か質問されても,それに受け答えする義務などあるはずがない.
上にも書いたように,当方は工学という側面から見ればこういうことであるという見解を述べているだけであるのに,その見解が結果するところはこの人の経済的負担何千万円,それをご存知か,と尋問されても答えようもないし,答えるべきでもない.そう返答しても喰い下がられ,Yes か No か表明せよと迫られたこともないではなく,なんとも理不尽である.
とある事件で出廷したとき,上述のような質問が出ると予想されたため,宣誓文書面に予め署名捺印せず,宣誓はするとしても,尋問の内容は意見書に記述された中味に限定してもらいたい,それが諒解された旨,証人尋問調書に記載してもらいたいと求めた.そこで分かったことは,法廷でとはいえ,宣誓する以前の論議はそもそも記録されないということであった.それゆえ,制限付きの宣誓は記述され得ないのである.しかしながら,予定された証人尋問時間の 1/3 以上をその議論に費したため,幾分はその宣誓前の議論による遠慮から,また時間的制約から,結果的には証人尋問は恙なく終わった.当方以外そこにおられた方々はコリャしてやられたワイとお感じであったかもしれない.いずれにせよ,宣誓文から「何事も隠さず」を外してもらいたい.そこ全部でなくとも,せめて「何事も」だけでも外れたら,「関係する事項についてのみ」という暗黙の諒解があると解してもよかろうから,躊躇なく宣誓できるようになる.
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