文化のまえうしろ

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文化のまえうしろ
再び文化のまえうしろ
再々文化のまえうしろ,土地鑑
重ねて文化のまえうしろ,祝箸
さらなる文化のまえうしろ,クローク
会食の前に設定されるべき時間と空間
空港までの距離と時間


文化のまえうしろ

 ドイツには森が多くて遠くへの見通しが効かない,そのためドイツ人の耳が発達し,彼らは音楽で秀でることになった.フランスは平原であり,フランス人には目が発達し,彼らの絵画に見るべきものが出たというように司馬遼太郎は言う.しかし,そういうことだと,ハンガリーやポーランドは全土ほとんどが平原なので,絵画に秀でなければならないが,そうではない.一面を見ただけの結論と言わざるを得ない.

 その民族あるいは国民が持つ何が,彼らの文化的卓越を導いたのか,その土地を訪れるといつもそれを考える.しかし,その得手の一方でとてつもない醜悪さがもたらされたその不可思議さはどうか.

 日本人が体系につながるような思想を創製したことはないという.思想,哲学はまずはゲルマンのものである.もっとも,そのもとはギリシャ・ローマにあることはここで言うまでもない.その高尚,洗練は例えばワイマールにあるゲーテハウスへ行けば容易に認識できる.ゲーテハウスの,イタリア趣味の,深いグリーンが基調となった部屋の壁を見よ.町そのもののたたずまいも,悪い意味ではなく良い意味で,ドイツ的秩序 Die Ordnung そのものであり,ゲーテハウスの外観とその前の広場との調和もそれであって,そこに立つものの心をときめかす.

 ゲーテと同時期シラーもそこにいて,ワイマールは文化的洗練の極にあった.そのワイマールの地にごく近く,1930 年代に設けられたブーヘンヴァルト強制収容所.なにゆえにこの高みと邪悪の同居が許されたのか.(この疑問は "Let's Go" の指摘に触発されてのことであり,それに依るところが大きい.)

 12 月のアフガニスタンの新政権構成に当たってパシュトン人の寄与が話題になった.(熊田 亨,パリ在住,中日新聞客員,はすでにそれの二ヶ月近く前に,有史以来アフガニスタンでパシュトン人以外に政権を担当できた民族はいなかったことを指摘している).パシュトン人にしか政治的組織構築能力がないにしても,国そのものをすっかりだめにしたのも彼らではないのか.

 我が国が江戸末期に到達していた洗練もまた世界の驚異と言えるもので,陶芸,絵画,建築,詩文などに,かつて外国から輸入した原資があるものの,付け加わったものは元をはるかに越え,独自の美意識確立を見ることができる.そうした伝統があるにもかかわらず,現在の都市の町並み,雑多な住宅の外観,電柱と電線の交差,それらの集合体は複雑怪奇かつ猥雑,目を覆うばかりである.江戸時代に我が国にあったと思われる静謐さが回復されることはあるのか.高みに達した経験がありながら,どういう感覚がこの醜悪の増殖を認めているのか.

 中国人の留学生.本人から見て相手がまだ自分にとって有用,自分に何かをしてもらはなければならない,というあいだは,挨拶もし,それなりの礼儀をもって接してくるが,そうしたことがすべて終わると,例えば,論文審査が終了するとほとんどその瞬間に,あなたは私にとってもう無価値な人ですといわんばかりの態度へと変身する.儒学の伝統が失われて久しいのであろう.かっては我が国の知識人のすべてが学び,単に教養としてだけではなく,生活の機軸としていたところのものである.我々も失って久しいのだけれども.

 伝統を維持しようとする意志,あるいはこだわりそのものも,現実から逃避し,自分のなかに避難場所を確保しようとしているということではないのか,と最近とみに思う.



再び文化のまえうしろ

 大阪から名古屋に来てそこに住むようになったのは昭和 36 年,18 歳のときのこと,なにかとカルチャーショックを受けたが,その中でも,他の人に解かってもらえないのは,名古屋では平素常に芝居がかかっているわけではないということであった.御園座や名鉄ホールはその当時からあったが,年に一回しか歌舞伎はかからず,単発のものも僅かに一二,文楽も滅多にかからなかった.小学校低学年のころから祖母にくっついて四ツ橋文楽座へ,中学,高校のころには道頓堀文楽座 (後の朝日座) へ,あるいは歌舞伎座,中座,京都南座へと,家族の誰かと,あるいは独りで,外題が変わるごとに出かけ,それが奇なことではなく,普段の生活そのものと考えていたからである.

 育った地域は天満というところである.小学校のころ,ある同級生の父親はガス会社の偉いさんであったが,我々洟たれ小僧はその人と往来ですれちがうたびに 「腰弁,腰弁」 と囃してからかった.その人の住む二三軒先に小さい昆布屋があり,実にシミッタレた商売人ではあったが,それとは別に,彼が腰弁でないことに小学生も一目おき,その人の方が雇われ人より偉いと感じていた.
 もちろんそのころすでに奉公人とはいえ,番頭,手代,丁稚というような配列ではなかったが,誰かに雇われているということは,自分で時間の采配ができない身分であると知れた.他方,どんなに小さかろうが店を構え,人を雇っている人達は Workday の日中にも,仕事を専務と呼ばれる番頭に任せ,芝居や文楽を見に行くことができる,そういう階級であった.

 世間ではヴェンチャー企業の創立こそいま我国に必要だと言い,大学の教官にまで企業創設を求めている.それにはまず何らかの動機が生じなければならないだろう.一介の商売人よりも大企業に勤めている方が偉いという土地柄や風潮のもとにその動機ありや.また,ヴェンチャー創成を謳う人の言は商売人を評価し,商売人の苦労を知っての上のことなのか.借金や手形の不渡りに耐え,毎月欠かさず雇い人に給料を払っていくことがどれほど大変なことかを知る者のみがヴェンチャー創成に耐えうる.単に技術力があればよいというものではない.そうした重圧があってもなお,自分の時間を自分で采配したいというのは奉公人が発するものとはいえ,ひとつの大きな動機であろう.

 文楽で語られる義太夫節には河内の農民への蔑視があると言われる.雇われ人のかなりがその地域出身であったことと対応していよう.そんなことと併せて,四世竹本津大夫・六代鶴沢寛治 「摂州合邦辻」 の録音,でだし一小節を聴いて,それがどれだけの高みに達していたのかを最近ようやく思い知った.どこにでもあり,永遠に続くと思っていたのは若年の幻想であった.

 この文には名古屋人への蔑視が含まれているに違いない.文化のまえうしろである.



再々文化のまえうしろ,土地鑑

 「御存 鈴ケ森」 (ごぞんじ すずがもり) と通称される,四世鶴屋南北の 「浮世柄比翼稲妻」 (うきよづかひよくのいなずま) で,侠客 "幡随院長兵衛" と藩から逐電した若侍 "白井権八" とが出会う「鈴ケ森」出会いの場面は通称どおりよく知られている.いまの品川区南大井二丁目あたりだそうで,幡随院長兵衛は浅草花川戸に住む町奴の頭目,そのときは帰り駕篭に乗っていた.南大井,浅草花川戸がどこかということを知らぬわけではないが,もともと大阪生まれなので,鈴ケ森から花川戸まで,今の我々が歩いて行ける距離か,どちらの方角か,途中になにがあるのか,というようなことがサッとおもい浮かぶわけではない.

 近松門左衛門の 「曽根崎心中」 (そねざきしんじゅう) は堂島新地 「天満屋」 の遊女お初と内本町の醤油屋,平野屋九右衛門の手代徳兵衛との非恋心中咄.こちらなら,天満屋があったのは大阪中之島合同庁舎のあたり.そこからヒルトンホテルを目印にして歩けば,蜆川 (明治時代に埋められ,今はない) の土手を東へ移動したのと等価.さらに梅新 (梅田新道) 交差点一本北の信号のところで御堂筋を東に渡ると露天神社はすぐ目の前.というように,いま現在存在するビル,家屋のたたずまいを一対一に目にうかべることはできずとも,方角から所要時間まで,特に考えなくても前提として,すでに自明として認識している.その辺すべて子供の頃,自分の足で歩いたところだから.もちろん内本町も,「アゝそれそれ,忘れずに安土町の紺屋へ寄って銭を取って帰りャ」 というところの安土町も,それぞれにようく分かる.

 この二つの芝居を見て,感興,理解に差はあるのかないのか.有るとすればそれはどういうものか.無くてもよいのか.もし,その方面の研究者だったら,前者の状況で研究者たり得るのか.謡曲での須磨 / 明石,海岸はいまは変わってしまっただろうが,都からの距離感覚なしで真底まで謡えるのか.どなたかのご教示を乞う.

 * 曽根崎心中が道頓堀竹本座で初演されたのは元禄十六年 (1703 年) 五月七日.それ以来ずっと続いているものと思っていたが,四ツ橋文楽座の昭和三十年 (1955 年) 正月公演が 238 年ぶりの復活であったとのことに少々驚いた.小学六年生で見たのがおそらくそれ.



重ねて文化のまえうしろ,祝箸

 正月の祝箸は縁起物なので,ほどほどに良質の柳箸*1と豪華ではなくともまともに水引きのかかった箸紙を使いたい.正月早々箸が折れたりすると縁起が悪いし,自分が育ってきたなかにあったものについていまさら手を抜きたくないからである.関西では箸袋と言わず箸紙という.箸紙に水引が印刷されているというものは選択の範囲外である.大晦日の夜,その箸紙に家族の面々それぞれの名前を墨で書く.家族の名前以外に 「海山」 と書いたものをあわせて用意して取り箸とする.二膳目の取り箸には 「鶴亀」 と書く*2.大晦日の夜にゆっくり墨を摺る,その行為は普段に増して過去の記憶を強くよみがえらせる.そのときだけにせよ意識して背筋を伸ばす.床にそれなりの軸が掛かっていれば,なおそれに添った気持になる.

 *1 柳とは呼ぶものの,樹木種としてはミズキが使われ,比較的重くて,それが良品であるらしい.ドロノキ,サワグルミなどもこうした箸の材料になっているとのこと.
 *2 関西では 「組重」 と書き,「海山」 と書くのは関東風であるという意見もないではない.

 もともと大阪生まれ,関西育ちなので,箸と言えば京都の市原平兵衞商店 (いちはらへいべえしょうてん) ということは承知しているが,大阪から正月の祝箸だけを買いに京都まで行くのも,ということで,長年,戎橋の画材屋,丹青堂で柳箸と箸紙のセットを調達していた.名古屋で正月を過ごすようになってからも,丹青堂が名古屋に支店を出しているので,そこで贖っていた*3.残念ながら,名古屋に他にそれなりの箸を扱う店があるということを耳にしたことがない.
 *3 いまでは丹青堂名古屋店でも毎年必ず扱われているというわけではない.大阪の本店に行けばある.どういうものであったか記憶が薄れているので,2014 年 12 月に大阪の店で見たら,下記にいう関東式であり,白無地ではなく,水引の上方に "壽" の文字が Emboss されて金色に塗ってあった.そんな字は要らない.それで候補から外れた.

 もう二十年以上になると思うが,徐々に東京へ出かけなければならない機会が増え,そうしたときの所用の合間に秋葉原へ寄ってちょっとした電子部品を調達することもあわせて増えた.箸勝本店 (はしかつほんてん) はそうした部品を探しに数軒の電気屋を移動する道筋にあたる.十二月初旬だと祝箸を用意しておくという意識はまだ弱いが,それでももう歳末,年の暮という雰囲気は,商業ベースにおいても,準備されており,あるとき思い切ってこの店に立ち寄った.小売店ではなく製造卸問屋である.そのとき以来,正月の祝箸はここのものを使っている.入ったところに帳場があって,そこに座っていた人が丁寧な対応をしてくれた.背広姿でなく,シャツにウールのネクタイ,それにジャンパーを羽織るといういでたちなのだが,普通なのに稀少,それがなかなか粋にきまっていた.

 箸紙と呼ぶとはいえ袋である.水引の懸け方で見ると,袋の開口部が上にくる,これが関東式らしい.関西式では開口部は下である*4.そこだけは気に食わぬが,大晦日の夜に気付いたのでは手遅れで,対策をとる暇も見出せず,いたしかたなくそのまま使った.以来対応していない.ものぐさになったものだけれども,デザインとして完成されたものになっていることもあって,近年はさして気にならない.

 毎年ほぼ同じように二こと三こと言葉を交わすだけなのだが,物腰や受け答えにたいした番頭さんだ,社長さんも安心して店を任せておけるだろう,と自分なりにいつも感心して,なんとなく満ち足りた気持で帰路につく.平成 15 年 12 月初旬,思い切ってこちらから望んで名刺をもらったのだが,それでその方が社長の 山本權之兵衛氏 とわかった.このときのいでたちもまた特筆すべきレヴェル.迂闊であった.

 *4 写真にあるのは,大阪,高麗橋にある荒木蓬莱堂の店主,荒木真喜雄の作であったと思う.京都では,箸紙の内側に折板/剥板へぎいた をあしらったものが使われるとのこと.大阪ではそれは見ない.もちろん,それも好まない.



さらなる文化のまえうしろ,クローク

 クロークは正しくは Cloakroom だろうが,我国ではクロークで通っている.ホテルや劇場などでコート,手荷物を預けるところである.米国では Checkroom というようである.愛知県の地方都市にある公民館にハンガリーのピアニスト,イェネー・ヤンドー Jenö Jandó が来るので聴きに行ったときのこと.真冬の日が落ちた時刻であるうえ,広い駐車場から距離があるのでコートを着てホールまで行ったが,そこにはクロークはなく,演奏会のあいだじゅうコートをたたんで膝に載せていなければならなかった.

 1993 年九月下旬,ポーランドのクラクフから夜行でライプチッヒ Leipzig へ移動した.着いたのは日曜日早朝,駅前にホテルをとり,シャワーを浴び,朝食を取って,すっきり気分爽快になり,太陽が登り始める街に出た.日曜日とあってマルクトは賑わっており,店々を覗いたりしながら適当に歩いて Thomaskirchhof に向かい,Bosehaus の前を見ると,これから音楽学校高等部のギターリサイタルをやると掲示してある.重いドアを押し開けて暗い空間を通り,奥の階段を昇ると会場になっており,あとで知ったことだがそこが復興前の Sommersaal であった.数人の女性が出迎えてくれ,お手荷物はお預かりしますと言う.劇場や美術館のもぎりを通ったところにある Garderobe, 衣紋掛け列はそこには見当たらず,我々のコートは奥へ持って行かれた.入場は無料であった.板張りの平土間で簡素なサロンの趣きであった.椅子に座ると窓ガラスは薄らと結露し,そこを通して濃緑の樹葉が揺れるのが見え,ああドイツだとの思いが来たるとほぼ同時に発表会は始まった. 朝の十時頃であったろう.窓下にある鋳物のスチーム暖房機から程よい温もりが躯に伝わるなか Bach や Villa-Lobos などに聴き入った.

 * Bosehaus の並びに Café Concerto という店がある.1987 年にまだ東ドイツだった Leipzig を初めて訪れたときに,白ワインと冷肉,ペイストリをそこで食べた記憶がある.東ドイツとは思えない落ち着きと上品さがあって,それが強く印象に残っている.



会食の前に設定されるべき時間と空間

 学術関連の国際会議,通常 「学会」 と稱されている Symposium や Colloquium で本格的なものは日曜日夕刻集合,金曜日午後解散という一週間に亘るものである.これ以上の長期間で企画されることはまずない.研究発表や基調講演は月曜日の朝から始まる.その会期中,火曜日あたりの夕べにはコンサート,水曜日あたりに半日かけての遠足 Excursion,木曜日夕刻の晩餐会 Banquet, Symposium Dinner というような,出席者皆で楽しむ機会がいくつか設定される.会期が短いものだと,遠足の帰りに宴会があるというように組み合わされたりもする.こう述べてくると,「学会,学会」 といかにも仕事のように言っているが,そうした半分遊びのような集まりに毎年に出かけている.そう聞くと呆れる人も少なくないが,もともと Symposium, Colloquium は太古からそういうものであったらしく,いまさら変えられるものでもない.

 Banquet に指定された時刻に指定の場所へ行ってもすぐにはテーブルに案内してもらえない.ダイニングルームに繋がる別の空間でまずは何か食前酒が供され,食事とは別の時間が事前にある.客が会場へ到着する時刻の差を調整して皆が揃うのを待つのが主旨であろうが,仮令 タトヒ 揃っていてもなお十五分二十分はそのままで席への案内がない.たいていその空間は充分に広いとはいえず,むしろほとんど肩擦り合うくらいに接近してグラスを手に三々五々談笑しているのである.

 多くの機会に,そんなに長時間く立たせておかずに早く座らせてくれたらと思っていたのだが,幾つかの学会に何回か出席を重ねるうちに,この時間無しでは学会として片手落ちであって,他の何よりもこれは外せないものなのだということが解ってきた.ディナーのテーブルが設えられたダイニングルームへ入って着席してしまえば,せいぜい同じテーブルの人どうしとしか話せない,その前段階で,ちょっとあの人に挨拶して,こっちの人には予定を伝えて,さっき発表した人にはここを訊ねてという,多少の移動を伴い,自由に話す機会抜きで済ませてはいけないということのようなのである.その空間といえば, Bergen, Norway では港に面した建屋の周りに張られた幅 1.5 m くらいのウッドデッキ上で,その下には波が打ち寄せるという吹き曝しの屋外であったし,Heidelberg の学会では Schloss Schwetzingen の薄暗い Foyer であった.

 ところが,日本で行われる国際会議では,指定時刻まであと十分ばかり残して指定ホテルの宴会場へ行くと,宴会場の扉はまだ閉じられており,廊下のようなところで何人もが手持無沙汰にゴソゴソとしているだけで,そこには何も供されていない.時刻になると扉が開けられ,サァどうぞ御着席下さいというふうである.それから全員が来て着席するのを待ち,さらに挨拶などがあり,その後ようやく乾杯になって,すでに泡が萎んでしまったビールにやっと在り付くという次第である.ここのところの差異は小さくない.日本でも主宰者がちゃんと押さえるべきところを押さえて指示すれば,適当な場所でグラス一杯の食前酒を出す程度のことはホテルもやってくれるし,費用増加も大きくない.

 一方,料亭と呼ばれる和風の料理屋で 宴を張る 場合にも事情はあまり違わない.真っ当なところなら,待ち合わせのための部屋が別途用意されている.玄関に比較的近い一階の広間で,狭い入口を潜ると視野が大きく開けて,庭全体が見渡せるというなら申し分ない.床間に季節柄の軸が掛っているのも見逃せない.座布団に座っていると,お茶とちょっとした菓子が仲居さんから個々にサービスされる.参会者が揃った頃を見計らって別室の宴席に案内される.しかし,これをしないところでも多くは自ら料亭と名乗っている.玄関を入って会合名を告げるとそのまま食膳と座布団の並んだ部屋に連れていかれる.そこで会費を徴収されるなんてことである.

 何が大事かを経営者や女将が理解していないらしい.こういうところでは出る料理も高が知れたものであり,その割に代金は前者と大差ない.勘定書きには飲食したものしか載らないが,会合の意味は単に皿の上の料理にだけあるのではない.これでは帰り道の愉快がない.

 * Heidelberg からの Excursion というと,たいていネッカー河を船で溯って行って何処かの村で降り,城址あたりに登って風景を楽しんだ後再度乗船して下ってくるときに飲めや歌えやの大騒ぎというもの.

 * 数百ドルの登録費 Registration Fee とは別に,Concert に $15, Excursion に $35, Symposium Dinner に $65 などと個々にまた徴収する学会があり,アメリカで行われる場合にこれが多い.良いこととは思えない.皆で楽しむというかたちになりにくい.登録費のなかですべてが賄われるときの方がずっと印象がよい.Symposium Dinner が登録費とは別料金なのに,そういうところほど,待ち合わせ時間中の食前酒まで自前で買わせたりする.学会を開催する世話役の会計は楽であろうが,評判がよいわけない.十年くらい経ってからでも,あのときは酷かったと話題になる.アメリカの大学では学内に学会開催支援部門があるところが多く,主催者や世話役はその部門手持ちの既存企画をひとつひとつあたかも部品を買うようにそこから調達するのでそういうことになるのであろう.学会開催は世話役が自分で働いて人件費を節約し,その分を出席者の為に使わないとうまく廻らない.業者丸投げで運営されているときなど出席者にすぐに見透かされてしまう.出席者が帰り際にああ世話になったと思っているようでなければ成功とはいえない.



空港までの距離と時間

 デッサウ Dessau はバウハウス Bauhaus で知られた旧東独の町であるが,かつて Junkers*1 の町でもあった.輸送機 Ju 52: "Tante Ju" などの航空機で有名であるが,Hugo Junkers は 気体燃料の発熱量計測法やガス瞬間湯沸器 の発明者でもあった.Bauhaus と Junkers とは共同作業もしていたようであり,Junkers のロゴは Bauhaus 製らしい.

 Dessau には 1855 年にすでに 大きなガス会社 ができていて,そこの Oechenhaeuser という人に Junkers が協力して 100 PS のガスエンジン を 1892 年に造ったのが実用ガスエンジンの始まりであったという.デッサウで Dessau Gas Engine Conference が 1997 年に始められたのはそうした下地があってのことであり,以降隔年に開催されている.

 *1 Dessau Gas Engine Conference に複数回出席したことがきっかけになって,日野自動車の 鈴木 孝氏 が Dessau を訪問 なさった.Junkers への関心を長く持ち続けておられ,Dessau で Junkers 所縁の場所に足跡を残された.もし,Link が切れてしまっていたなら,"鈴木 孝:『名作・迷作エンジン図鑑』2013 年 8 月,グランプリ出版",ISBN978-4-87687-329-6,p. 145 を.

 Dessau の最寄り空港は Leipzig/Halle,Schkeuditzer Kreutz にある.50 km あまりの距離である.京都から伊丹空港への 60 km 足らずと大きくは変わらない.定期バスで伊丹空港までの所用時間およそ一時間と記されてはいるものの,都ホテル経由,二条城前経由 65〜95 分,余裕をもたせたプランで,などと注記されていて,飛行機を伊丹空港で降りて京都へ向かうときなら多少の延着は平気でも,伊丹空港から飛行機に乗るときには離陸時刻の二時間前に,安全側に振るなら二時間半前に京都を出るというふうである.
 Leipzig/Halle 10.00 発の国内線に乗るために Dessauer Airport-Shuttle Service といったところに学会の世話役が Shared Van*2 を手配してくれた.何時に迎えにくるのか,朝食をホテルでとっている暇はあるのかと訊ねたら,9.00 に来るからゆっくり朝食を楽しんでくれという.そう言われても,離陸三十分前にチェックインするとして,50 km の移動に三十分しかないわけで,オィオィ大丈夫か乗り遅れないのかと重ねて訊ねても取り合わないし,Shared Van の連絡先も教えてくれない.

 結論を言うと,これで空港には三十分前には着いていたのである.空港は Autobahn と直結されていて,空港までの道程のうちおよそ 45 km が Autobahn 区間であって,そこに入れば直ちに 140 km/hr の速度で走れるし,走るのである.走れないときなど無いと運転手が言う.料金所が無いからそこでの時間消費も無い.朝,ホテルを 7.30 に出るのと 9.00 に出るのとでは,一日の生活そのものが違う.我々日本人が 過密 に対して 支払っている代償 は大きく,それが日常生活を日常生活たらしめない.人口減後の社会においては自ずと過密は解消されようから,各自が日常生活を取り戻し,余裕のある社会を構築する機会ではないか.まずは,余裕を持てない原因を把握するところから余裕を持って始めるのがよいだろう.

 *2 Shared Van の料金システムは,一人乗車で行くときを "10" とすると,二人のとき @7, 三人のとき @5, 四人,五人のとき @4 というようになっていた.乗客が一人では大してありがたくもないが,同時に多く乗ってくれれば小遣いが潤うということか.


 Still not fixed.


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