理解するとはどういうことか
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 現在,通常の小学校では連絡事項を口頭で伝え,それでものごとが円滑に進むということはほとんど望めず,紙に書いて毎回配らざるをえないそうである.ひとが言っていることを,実時間で過不足なく理解することができなくなっているのである.

 大学に入るころになれば,発言の表面上の意味だけでなく,言外の意味をもくみ取らねばならなくなる.文面そのものではなく,その背後に拡がる世界に入り込まなければ理解するということにならないからである.理解はその人,個人の問題であって,理解に至る過程は人それぞれに異なる.それゆえ,説明やアプローチのしかたは複数あった方がよい.ある人は左下からのアプローチでは霧の中だったが,右上からのアプローチで目から鱗が落ちたということであったとしても,他の人も同じ経緯をたどればよいというわけではない.講義では教官自身がかつて理解した道筋に沿って話すことにならざるをえない.しかし,その道筋を他人に強要しても仕方がない.自分なりの経路を自分で見いだしてもらうよりない.

 講義で話していることはすべて教科書に書いてあると思っているうえ,教科書の筋書きどおり講義してくれないと,いまどこをやっているのかわからないという学生が増えた.知ってか知らずか彼らは自らを「生徒」と呼ぶ.どのような説明もものごとの一面を示すにすぎず,その説明文を憶えても理解することにならない.それが理解につながることは稀である.理解とはもう少し奥の方から大きくつかむことである.小さな悟りと言い換えてもよい.

 何かのきっかけがあって大きな理解へ一挙に進む.その理解のプロセスは個々人の思考回路に依存しており,外からはうかがい知れない.しかし何かが理解のきっかけになることだけは間違いない.さっぱり分からないような話がきっかけになることもしばしばである.教科書や配ったプリントをそのまま説明するというのは講義とはいえず,単なる解説もしくはそれ以下である.講義なら一回一回起承転結があってしかるべきである.かつて東大では京大の先生が書いた本を教科書に指定し,京大では東大の先生のそれを与え,講義でしばしば他方を貶し,腐すということがあったと聞く.その意味は対立者を非難するということだけであったろうか.複数のアプローチを提示して,理解へのトリガーを学生に与えていたのではないか.



 読解力

 経済協力開発機構 (OECD) が平成 16 年 12 月 7 日に学習到達度調査の結果を公表した.41ヶ国・地域の計約 27 万人余の 15 歳人を対象に,知識や技能の実生活への応用力をみるテストが実施されたその結果である.日本について,2000 年の前回「読解力」は 8 位だったが,今回は OECD 平均レベルの 14 位にまで低下した.読解力は,文章や図表を理解し考える能力と位置づけられている.習熟度レベルの高いグループは前回並みの得点だったものの,習熟度レベルの低いグループでの落ち込みが大きく,学力格差が広がっているとのことである.

「国際経済論」という大学院一年次の共通科目について,外来非常勤講師の世話をする羽目になり,宿題の採点も手伝うことになった.問題の最初は,

  問 1) 半年複利,年利 5 % が維持されるとすると,5 年後 1,000,000 円の現在価値はいくらか.計算式も示せ.

というものであった.利息というものが金融の基本というか,ほとんど本質であるから,それをまずのみ込ませようという意図で出されたものであろう.金融における等号 (=: イクォール) の意味を問うことに相当する.もちろん技術的には算数のレヴェルにある.随時交換可能な通貨などに関して,その現在と未来とで,どのような考えで等価と見做し得るのかを問うている.問 2) 以降はもちろんもう少し思考力が必要な問題となっているのは,それが大学院生への問いであることからして言わずもがなのことである.ここで早くも,受講者の読解力の程度を知らされた.あとは推して知るべし.惨憺たるもの.

 "5 年後 1,000,000 円の現在価値" というのを充分把握できず,"現在ここにある 1,000,000 円が 5 年先に持つであろう価値" と解釈する人が少なからずいたのである.銀行の窓口じゃあるまいし,問いなのだから,そりゃ少しはヒネッてありますよ.「将来収益の割引現在価値」 という用語も知らないのか.(正解はもちろん 781,198 円)

 OECD の調査は 4 年おき,大学院一年次なら 23 歳くらいであろうから,15 歳人に対してのものなら,その人達には前々回の調査結果が該当するのであろうか.そのときも 8 位くらいだったとすると,8 年先にはこんな愚痴すらもこぼせないほどになっているということか.習熟度レベルの高いグループは変化していないというなら,ここで引っ掛かった人達は習熟度レベルの低いグループに属すると解釈すべきなのか.大学入学までにチェック機能は作用しなかったということか.



 熱効率とは,と尋ねるとひとつ憶えのように 「仕事を熱で割ったもの」 と答える.これでは理解とはほど遠いし,正確でもない.むしろ害があって一利なしである.「A を B で割ったもの」 は算数であるかもしれないが,中味がない.入ったのか出たのかということも区別されていない.

 「燃料を燃やすなどして,熱機関に与えられた熱エネルギーを,その熱機関がどれだけ仕事に変換したかというその割合」,「燃料消費率は 1 時間 1 馬力当り何グラムの燃料が必要かを表わす指標」,「熱効率は燃料消費率と同じ指標,ただし数値の大小関係は逆,熱効率は無次元だが,燃料消費率は次元付き」 というように順次頭の中で咀嚼されたものが自分の言葉で出てくるのでなければ,ほんとうに解かっているとは言えない.

 ところがいまは,熱効率:「仕事を熱で割ったもの」 にせめて 50 点は付けろとの要求があちこちから起こる.学生からだけでなく,他の教官や,大学から.評価が低すぎるというのである.

 同じようなことであるが,「動粘度 ν とは 粘度 μ を密度 ρ で割ったもの ν = μ/ρ」,というように,教科書にはたいてい定義しか書かれていない.しかし,これでアァ良く解ったということはあり得ないであろう.これは,「一定量の試料がある細孔を通って流れ出すに要する時間」 に比例しており,自重で下方に引っ張られて流下するがゆえの密度 ρ なのである.粘度計がどういうものであるかを見れば一瞬で解るはずである.



 「漢字が教育の妨げとなり,人の思索や想像力を弱めていると考えるのは,大きな誤りである.努力しないで習得される程度のものが,すぐれた文化を生むと思うのは,横着な考え方というべきであろう.むしろ学習の条件が高められている今では,以前よりも多くのことが効果的に学習され,より創造的なしごとが期待されるはずである.」
 「しかし人々は,あまり知識を欲していないようにみえる.未知のことを知ろうとしていないようにみえる.たとえば文字にしても,常用漢字の世界に安住して,それ以上のことは余分のことのように思ってしまうのではないか.万事が,あてがわれた範囲のことで,満足する習癖となっているのではないか.」
 「知識は,すべて疑うことから始まる,疑うことがなくては,ほんとうの知識は得がたい.疑い始めると,すべてが疑問にみえる.それをひとつずつ解き明かしていくところに,知的な世界が生まれる.単に知識のことばかりではない.世上のありかたすべて,そのままでよいはずはない.」
 「私は東洋の理想を求め,その歴史的な実証を志して出発した.しかし世の中は,私と全く異なる,逆の方向に進行した.私は崩壊してゆく東洋を目前にしながら,より古く,より豊かな東洋の原像を求めて彷徨した.二十にしてその志を抱いたとすると,今ほとんど七十年である.私の行動は,そのためつねに,反時代的なものとされた.」

 白川 静 「回思九十年」, 平凡社,ISBN4-582-82434-X, 1700E, 2000 年 4 月,p. 82
 初出:白川 静 「私の履歴書」,日本経済新聞,平成 11 年 12 月 1 日 - 31 日連載

 「万事が,あてがわれた範囲のことで,満足する習癖となっている」 というあたりはまだ普通の指摘だが,「私の行動は,そのためつねに,反時代的なものとされた.」 という結びになると強く効いてくる.70 年間も耐えて来たという.世間がいま望むものだけがいま現在の学問であって良いわけがないと言っている.

 ここでこの節を終わってもよいのだが,このままだと,アァ白川 静に心酔しているのか,と読者に受け取られる虞もあり,それはそれで癪なので,「白川静は『と』だと思う」という意見にも賛を付けないわけではないと断っておく.なお,『と』とは「とんでもない」法螺の意.我々工学系の者から見ると,実証の仕方が . . .




 日本経済新聞,平成 16 年 4 月 11 日 (日)

 「練習問題を反復的に解くことは本当の勉強ではない」 とある.この年の授業評価で 「講義するだけでなく,演習をやって模範回答を呈示し,そうした設問のうちのいくつかを最終考査に試験問題として出してほしい」 という趣旨のコメントが学生から出た.ついにそこまで来たか.そのコメントの文章はここに紹介するのが憚られるほどに稚拙であったことはいうまでもない.

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 上の記事にあるド・ヴィルパン外相の演説については下記のようなコメントがあり,両者の対比がまた面白い.

"Le Monde Diplomatique, 2004 年 2 月号" に出た記事が "ル・モンド・ディプロマティーク, 日本語・電子版"
http://www.diplo.jp/articles04/0402-2.html に,訳・森亮子 として再録されている.以下に関連箇所を挙げる.

「アメリカのポピュリズム」 トム・フランク Tom Frank, 雑誌『The Baffler』発行人

 イラク戦争に先立って国連で行われた議論の際、フランスのド・ヴィルパン外相は、アメリカ側の間違った主張を打ち崩すたびに、これでブッシュ大統領の支持者を説得できたと思い込んだに違いない。洒落た服装で、品がよく、数カ国語を話し、世界中の大使から賞賛されるド・ヴィルパンは、窮屈そうに腰掛けたアメリカの謹厳な国務長官に対し、自分の正しさを確信する貴族のような横柄な態度で詰問した。ド・ヴィルパンが見落としていたのは、無数のアメリカ人が事実などというものを気にかけず、シンボルの世界に生きていることだった。この点からすると、かわいそうで不器用なアメリカ人と、してやったりとばかり詩など引用してみせるフランス人の一騎打ちというのは、ブッシュ大統領のポピュリズムにとって期待しうる最上のシナリオだった。


 理解するとはどういうことかをさらに考えてみたいという方には,塩川伸明先生の このあたりの記事 を推奨する.そこ,読書ノートに載っている 袴田茂樹『文化のリアリティ』についての書評文 を併せて見れば,説明の巧みさ,筋運びの緻密さ,結言ならびにそこへの誘導の妙を堪能できるであろう.そこに解るということがどういうことかも含まれている.

 また,こういう比較的直裁的な 解釈・定義 も土屋顕史氏によってなされていて,「幸福につながるひとつの道」であるという.しかし,「体験を経ないと理解に至らない」 という主張については,理系の者には納得しがたい.それでは学問はそもそも成立しない.あるひとつの機械を設計したということですら,製作される以前に論理の繋がりによってその機械の性能が机上で確保されている.設計段階では未体験である.体験済みなら単なる改修にすぎない.もちろん知識だけ,理解なしで新規設計が機能することはない.それぞれに興味深い.


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