最近読んだ本 |
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本の推薦文ではありません.その本を読んだときに自分の中に派生してきたものを,自分のこころおぼえとして書いたものです.読んだときだけでなく,あとから思うこともあって,先のものに書き加えることもしばしばです.本を読んでいて地名が出てくると,そこをむかし訪れたときの印象がよみがえります.それゆえ,読後感というより旅行の思い出のようなことになってしまっています."最近読んだ" となっていますが,書きはじめてかなりなるので,必ずしも "最近" のものばかりというわけではありません.もっとも,英国では二百年以上経過していなければ "最近" と言ってもよいとのことです.
平出隆 「ベルリンの瞬間」 | クラウス・コアドン 「ベルリン 1933」 | ヴィンフリート・ゲオルク・ゼーバルト 「アウステルリッツ」 | |
出久根達郎 「書棚の隅っこ」 | 平田達治 「中欧・墓標をめぐる旅」 | ヴィンフリート・ゲオルク・ゼーバルト『移民たち 「四つの長い物語」』 | |
ポール・ジョンソン 「ユダヤ人の歴史」 | 浦部重雄『「舞姫」 のベルリン』 | ヴィンフリート・ゲオルク・ゼーバルト 「目眩まし」 | |
カール・ショースキー 「世紀末ウィーン」 | 増谷英樹 「歴史のなかのウィーン」 | ベルナール=アンリ・レヴィ 「誰がダニエル・パールを殺したか ?」 | |
金澤正剛 「中世音楽の精神史」 | ヨーゼフ・シゲティ 「絃によせて」 | ゲルハルト・シェーンベルナ『証言「第三帝国」のユダヤ人迫害』 | |
森嶋通夫 「なぜ日本は没落するか」 | 渡辺和彦 「クラシック極上ノート」 | ゲルハルト・シェーンベルナ『新版 「黄色い星」 ヨーロッパのユダヤ人迫害』 | |
山家悠紀夫 「構造改革という幻想」 | 谷戸基岩ほか 「古楽 CD 100 ガイド」 | 神野直彦・金子勝 「財政崩壊を食い止める」 | |
フルタヒロシ 「ちょっとだけ考える」 | ニコラウス・アーノンクール 「古楽とはなにか -- 言語としての音楽」 | ||
車谷長吉 「錢金について」 | 井堀利宏 「財政再建は先送りできない」 | 渡辺和彦 「ヴァイオリン・チェロの名曲名演奏 - 弦楽器の魅力をたっぷりと」 | |
伊丹末雄 「万葉の香」 | 鈴木雄雅 「大学生の常識」 | 水谷彰良 「サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長」 | |
小松英雄 「丁寧に読む古典」 | 重延浩『ロシアの秘宝「琥珀の間」伝説』 | 米原万里 「オリガ・モリソヴナの反語法」 | |
小松英雄 「平安古筆を読み解く」 | 柳瀬尚紀 「猫舌三昧」 | 野田正彰 「国家とマロニエ -- 日本人の集団主義と個の心」 | |
瀬木慎一 「絵画の見方買い方」 | ロバート・アーリック 「トンデモ科学の見破りかた」 | ||
瀬木慎一 「名画の値段」 | 森内俊雄 「真名仮名の記」 | ビル・ブライソン 「アメリカを変えた夏 1927 年」 | |
榊原悟 「日本絵画の見方」 | 堂本正樹 「喝食抄」 | ハロルド・ネベンザール 「カフェ・ベルリン」 | |
黒川博行 「文福茶釜」 | パスカル・メルシエ 「リスボンへの夜行列車」 | ||
村田喜代子 「人が見たら蛙に化れ」 | フェルディナント・フォン・シーラッハ 「犯罪」 | ||
フェルディナント・フォン・シーラッハ 「罪悪」 | |||
ウーヴェ・ティム「ぼくの兄の場合」 | フェルディナント・フォン・シーラッハ「コリーニ事件」 | ||
後藤 均 「グーテンベルクの黄昏」 | ローベルト・ゼーターラー「ある一生」 |
1998 年 5 月から1999 年 5 月まで,サヴァティカルでベルリンに 1 年間,飼猫とともに滞在したときの記述とある. どこから読み始めてもよい.節の導入部でそれぞれ S バーンの駅名や街路の名がまず出てきて,ツェーレンドルフ,オラニエンブルクなど,固有名詞とその読みから発せられる,重くくすんだ圧迫感が直ちにベルリンのあの場所この場所の,特徴ある空間と空気へと引き込む.切り取られた「ベルリンの瞬間」がそこにあり,空間と流れる時間とが不可分のものであると知られる.切り取られた一瞬一瞬がつながって経過した一年もまた一瞬であり,それがタイトルになっている.一瞬とて吹けば飛ぶわけではない.そうしたなかにプロイセン流の剛健さが燭光のごとく垣間見え,カルル・ズスケ率いる弦楽四重奏団の演奏を聞くときと同じ気持になる.
この本をまた都市論や比較文化論として読むこともできる.アムステルダムに較べてベルリンではどんなものも大きすぎるという.
旧東ベルリン地区にしか市電は残っていないが,そちら側を歩くなら,ローザ・ルクセンブルク・プラッツで市電を頻繁に乗換えざるを得ない.日常事となっている場所である.ローザ・ルクセンブルクは運河に浮かび,そこはリヒテンシュタイン橋のあたり,といったことが,それなりの人なら脳裏にある.オラニエンブルクと聞けば直ちにザクセンハウゼンと来るではないか.個々の固有名詞の重苦しさの理由として「ベルリンでは死者の記憶が堆積している」ということはまさしくそうであろう.それらはまた無念の死であった.
最小限の言葉で空間の空気を余すところなく呈示する特有の芸は,須賀敦子を思わせるが,この本の著者の場合には,肌に触れる気流の擾乱にまでそれが及んでおり,背景は彼女のモノクロームではなくて淡く彩色されている.謡曲本の広げた最初の数行が,また弦楽四重奏の第一楽章前半がある景色へといざなう過程と相通ずるところがある.文の方もまたそれぞれの楽章へと発展し,個々に秀逸かつ短い終節に到る.
このひとの美意識,美的感覚は "一月第四週,結晶学者の部屋" の節に尽きている.「その内密な夢の働きは,歴史の舞台で残酷なまでに迫害されてきたものの系列に属している」との捉え方を見れば,何に価値がおかれているかを推し量れる.また別の箇所では,ピチェルスベルク駅近くの乗馬クラブについて,「ここでは生きものばかりか道具や物影まで,なにもかもが飾りがなく,暗い赤みを帯びた光のもとで,堂々としている」と言っていて,クローム鍍金と紫系パステル色に重ねて無意味な模様で武装した高層アパートの入口が増殖するのを見慣れている身でまだ汚染を免れているという証をそこに見いだせる.
日本人にもまだこのような知性が存在することを知って,早々と新年の眠りにつき,疲労軽減という幸せを精神と肉体双方について味わった.
「基本的に紀行エッセイの類に分類されるものですが,著者としては,散文作品としての試みをかさねたつもり」 とあとがきにある.第 11 回 JTB 旅行文化賞,紀行文学大賞 受賞は当然そのあとのことであろうが,著者の苦笑いが見えるようである.
私がベルリンを最初に訪れたのは 1987 年の夏であり,鉄道でハンブルクから行った.東側へはフリードリッヒシュトラーセ駅で通過査証 Transit Visa をもらって入り,ポーランドへ抜けた.当時,東ベルリンへの一日査証は有料である上,25 M 東ドイツマルクへ一対一の強制両替が課せられていた.Transit Visa なら強制両替がなかった.次回訪問は1989 年,壁崩壊の一週間前で,すでに寒風肌を刺す時期であった.このときはシェーネフェルト空港から帰った.その後,1999 年に二度訪れる機会があり,ともにテーゲル空港を通った.一度はこの書の著者と同じく,コペンハーゲンとのあいだを小さなターボプロップ機で往復した.この空港での応対はまたなんとも言いがたい違和感に満ちていた.テーゲル空港から出発するに当たって,デンマークの入国査証を所持しているかと尋ねられたのである.
とにかくベルリンで受けるあの奇妙な圧迫感は壁崩壊前と程度こそ違え,依然として消えてはいない.ミュンヘンにはもちろんないし,ライプチィッヒやドレスデンにもない.それが何であるかをこの本の著者は「帝政とファシズムと大戦と分断をつうじて,"自分が壊しに壊したものに,いまも取り囲まれて息をしている"」ことと言っている.内で排除しようと努めてきたものに囲まれているということであろう.私もこれについてはずっと考えてきたが,そこには大きく相反する二つの価値観ないしは人の生き方があり,どちらかを選択して生きているにしても常に迷って,他方が気になり,そうした呪縛から抜けられず,萎縮する,ということではないかといまは思っている.ベルリンの大掛かりな改装工事をとりあえず認める現地人でも,ポツダマー・プラッツへ喜び勇んで買物に行ってはいないだろう.
旧東ベルリン地区 S バーンの車輌は内部が木製のしつらえであり,それが壁崩壊後に旧西ベルリン地区へも乗り入れていた.加速時のモータ音はかつての大阪の省線電車や大阪の市電そのものであって,それを耳にするたびに,小・中学生時代に戻ったような幻想にかられた.旧東ベルリンでそれに気付かなかったのが不思議である.あまりにも周りに溶け込んでいたのであろうか.2003 年 5 月に訪れた折にはその車輌をもう見ることはできなかった.
この本を読んでいて,いろいろなことを思った.当事者でない気安さという後ろめたい感じが伴うものの,ベルリンに居てもベルリンから離れていても,思いの対象が刻々増える,ベルリンはそういう興味深い都市である.なにしろ,そこではひとつのものの二面を同時に見ることができるのだから.
これは小説である.「転換期三部作」 と呼ばれるものの第二部で,他はまだ翻訳されていないらしい.ヒットラーが 1933 年 1 月 30 日,シュライヒャー将軍から政権を継承するその半年前から,2 月 27 日の国会議事堂炎上直後までを,テーゲル空港の東側,ベルリン中心街の北側に位置するヴェディンク区に住み,15 歳で初めて工場勤めをするようになった少年が,時代に翻弄されつつも,自我を構築して行く様子を主軸に,失業と貧困,その悲惨さがあわせて描かれている.軽い読物ではない.また,結末はここにはない.少年が恋心を抱くのがユダヤ人の少女であり,そのことは第三部への伏線になっていよう.
一旦,ある潮流に多くの人がなびいてしまうと,それに抗して生きることがどれだけ困難なことか.こうしたことはいまの我が国の状況と容易に重ね合わせることができる.
現在のベルリンの地図を見ると,70 年近く経った今も街路の配置や名称はほとんど変わっていないことが知られる.ヴェディンク区は観光客が訪れる地区ではないが,そのすぐ東側,旧東ベルリンに属するプレンツラウアベルク区に 1999 年夏,宿を取ったときの印象などから当時の状況を想像しながら読み進めた.
少年が勤めていた AEG については
http://www.dhm.de/lemo/html/kaiserreich/industrie/aeg/
http://www.tu-berlin.de/presse/pi/1998/pi200.htm
などの Website で知ることができる.
旧盆が近づき,仕事をする気力も失せようとするとき,この本を目にした.まずはタイトルに引かれ,手に取ったあとは一気呵成に読んだ.筋を追うために斜めに読んだところもかなりある.本来そういう読み方をする本ではない.ところどころをまた丁寧に読みかえしはじめたが,これはまた骨の折れる作業である.しかしそこに愉しみがないかといえば,そんなことはない.こういうことこそが愉しみである.
その間,しばしば原文に当たりたいという衝動にかられる.Internet 上で以下の独語原文 Leseprobe を見つけた.なかなかの文章である.直ちに意味がとれなくとも,声に出してみると,そこに明確なリズムがある.惹かれる.朗読に耐えるだろう.こうして読むと,筋書ではなく,著者の心の揺らぎがこちらに伝わる.一文一文が長く,一文中に修飾語と関係代名詞が山ほどある.一冊すべてを原文で読むだけの力はない.翻訳がなされたのは幸いである.英語への翻訳文も以下のように見つけたが,和文と併せ読むなら独語原文の方が数段うえであろう (もっとも英文も悪くはない.この翻訳は著名な賞を受けている).
いずれにせよ,知識人とはどの程度のものか,その重みはいかばかりかといったようなことや,ヨーロッパがいかに重層的かというようなことを再認識させられる.また,アントワープ中央駅やらプラハのホレショヴィッツェ駅やらの内外部構造を知らずに読むのと知って読むのとで,つまり その土地を知っている のといないのとで,理解に差があるのかどうかも再度考えさせられる.これも小説である.この稿の上下にある本の中味と深くつながっている.
"Austerlitz", ISBN 3-446-19986-1, Carl Hanser Verlag, München, April 2001
Leseprobe: http://www.hanser.de/leseprobe/2001/3-446-19986-1.htm,
- Anfang
Leseprobe: http://www.lyrikwelt.de/gedichte/sebaldg1.htm, -
Anfang
Leseprobe: http://www.die-leselust.de/buch/sebald_austerlitz.htm,
- S. 183. 日本語翻訳版 121 ページ
"Austerlitz" by W. G. Sebald, Translated by Anthea Bell, Random House, 2001, ISBN 0-375-50483-4
Excerpt: http://www.chron.com/cs/CDA/story.hts/ae/books/ch1/1198252, - The opening in English
Anthea Bell: Recipient of the 2002 Helen and Kurt Wolff Translator's Prize,
http://www.goethe.de/uk/chi/wolff02.htm
日本語翻訳版と原文を併せ読んだとき,例えば後者の Leseprobe に出ているところでは,
alte Stadt -> 古びた都市,Quartieren, die weit zurückreichen in die Zeit -> 往古からの地区
などに満足できなかった.ふるくから続いてきた町,都会」,「過去からいろいろな歴史を引き継いできた地区」 というように,もう少し好意的な意味の,膨らみのある表現であると思う.それにしてもそうしたことは大きな問題ではない.
プラハのマラー・ストラナ 「シュポルコヴァ小路」 というところで『不揃いな敷石を足裏に感じて,一歩一歩上り坂を踏みしめていくうちに,はやくも,この道は歩いたことがあると感じました』日本語翻訳版 (p. 146) とある.
幸いにも,プラハを訪れる機会が九月中旬にあり,そこへ行ってみた.二枚の写真がその道である."Sporkova" の "S" は単純な S ではなく,「かぎ "hacek"」 のついた文字である (この "hacek" にも a と c とにアクセント記号が付いている.以下アクセント記号を省略する). 小路の先に見えるのは Lobkovicky Palac で,Vlasska 19,いまはドイツ大使館になっている.そこへは Trziste 通りを登っていくのだが,そこにある Schonbornsky Palac がいまはアメリカ大使館で,このときは半旗が掲げられ,前を通る車はボンネットを開けて調べられていた.このシュポルコヴァ小路を歩いてみて,現実と架空とがないまぜになった,いささかおもはゆい感じを味わった.ここで 「敷石」 とあるのはもちろん Cobblestone, Belgian 路の石である. |
この文からあと,かつて隣室に住んでいて,幼少アウステルリッツの守りをしてくれたヴェラ・リシャノヴァーと再会する経緯が語られ,いくぶんメロドラマ風ではあるものの,記憶の核心,文章の美しさ,ただよう陰翳,それらとあわさって,著者の気持の高揚が徐々に読み手にも染み入ってくる.
また,『三十年近く教鞭を執ってきたわけですが,一九九一年に,定年を待たず職を退きました.それは,とアウステルリッツは語った.ひとつには蔓延する愚昧がついに大学にまで及んできたことを思い知ったからですけれど,もうひとつは ・・』日本語翻訳版 (p. 117) ともある.1935 年生まれという設定になっているので,56 歳のときのことになる.自分の意思で逃れ得たものを呈示して,逃れ得なかったものとその大きさを逆に際だたせている.逃れられなかったものとても決して神の定ではなく,人間が構築したものなのである.あわせて,サッチャー改革の余波に言及しているのであろう.日本の大学は十五年ないし二十年遅れでイギリスの大学の二の舞になろうとしている.歴史に学ばざるか.オックスフォード/ケンブリッジの栄光いまいずこなる状況を知らずや.
アウシュヴィッツを最初に訪れたのは 1987 年 8 月 1 日であった.クラクフからひとりで定期バスに 1 時間あまり乗り,入口近くの停留所で降りた.ごく最近,そのときの切符が出てきて,日を確定できた (右の写真.逆さだが,ゴム印で "Oswiecim" と押されている.おそらく 14 45 とあるのがクラクフでの乗車時刻). 着いたときにはもう夕日が下がりかけており,あたりには人影もなく,奥の方を覗くと "Arbeit macht frei" なる鉄のすかしを掲げた,かの正門が見えた.木立の木の葉を透かして太陽は弱く斜めに射し,風が吹くたびにカサカサ,カサカサと音をたてた.あたりの空気は透明で,夕刻の日差しのなかで刻々と長い影の濃さが増して行った.もう中に入る気力はなかった.そのまま帰ることにしたが,近くのバス停留所から出るバスはかなり間があったのでやめて,鉄道の駅まで歩いた.駅で列車をさがしたがやはり 1 時間以上待たねばならないうえ,クラクフへは乗り換えが必要だったため,やむを得ずタクシーで戻った.54 km あった. |
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二回目は 1993 年 10 月.クラクフ鉱山冶金大学で学会があり,そのときの Excursion だったか Accompanying Person's Program であったか,とにかくそうした企画に乗っかかり,多人数で,貸し切りバスで,かつ明るい午前中に,学会関係者の案内付きで.このときにはもちろん中にも入り,ほとんどのものを見た.あわせてビルケナウも訪れた.
2003 年 9 月,プラハからクラクフまで夜行列車に乗ったら,Oswiecim の駅を経由した.車窓からアウシュヴィッツらしきものは見えなかったけれども,ビルケナウの,鉄道の線路が延びたあの入口の塔が夜明け薄明かりのなかにその先端を見せた.一等寝台に乗っていたとはいえ,うらさびしく,そのときちょっとした震えが身中を走った.
高校生のとき,大阪の北野高校図書館でフランクル Viktor Emil Frankl の「夜と霧」みすず書房,を読んだ.昭和 30 年代のことである. 読んでいるときその本から臭ったにおいをいまでも忘れない.写真製版に使う薬品の臭いなのか,紙をツルっとさせるために塗られている滑石の臭いなのか,よくは分からないが,本の内容とあいまって,吐き気をもよおした.やはり夕刻であった.「夜と霧」 は昭和 31 年,1956 年のベストセラーだったらしい.
2001 年 6 月,ワイマールに行く機会があって,近郊のブーヘンヴァルトに寄ってきた.アウシュヴィッツに較べると規模も小さく,残っているものも僅かだったが,生体解剖がなされたらしいタイル張りの台や,焼却炉,死体を仮に置いてあったらしい地下室,そこから焼却炉へ運ぶためであろうリフトなどが残っていた.それだけでも充分すぎた.こちらの入口扉にある鉄のすかし文字は "Jedem das Seine".ドイツ語初心者にはかなり難解,あとで Browse して,"Soweit es an mir liegt, soll jeder das Seine nutzen und geniessen dürfen.",
"To Each His Own", "Everyone gets what he deserves.",
「個人は己の分をわきまえて」 などと解釈されているのを見た.J. S. Bach の Kantate, BWV163 の題名が "Nur jedem das Seine" となっているのに最近気付いた.
「ワイマール駅地下通路のタイルのところで」という記述がこの本の中にあった.ついこのまえ,ホームに上がるのにまさにそこを通った.その地下道とそのタイルの記憶を前においてこの本を読んだ.本そのものは,訳者のひとり,本学の日野安昭先生からいただいた.書物から得るもの,実際に行って目で見たもの,それぞれの意義と限界,また両者の相乗作用について考えさせられた.この本の内容そのものについて直接コメントするだけの気力がない理由は,ここまで読んでいただいたなら,ご理解いただけるであろう.
フランクルの「夜と霧」みすず書房 については 2002 年 11 月に池田香代子氏の新訳が出た.旧版は霜山徳爾氏の翻訳とのことで,40 年以上にわたるロングセラー,毎年 2 万部程度売れ続けていたとのことである.新訳はまだ読んでいない.読まないかもしれない.
これは『証言「第三帝国」のユダヤ人迫害』と対になる本で,前作とは違って,写真を呈示することが眼目となっているようであり,前作を補追する写真集とも言えるものである.ただし,証言やコメントなどが写真と一対一に対応しているわけではない.「夜と霧」 同様,食事前にはとてもページをくれない.
この本の中に下記の書物が紹介されていた.まだそれを読んでいないが,私が先にブーヘンヴァルトを訪れた際に感じたことがそこにある下記の文章で明確に指摘されている.ブーヘンヴァルトでは収容前に,頭を丸刈りにしたうえ,裸にして,消毒薬液風呂に浸けたと現地の説明文にあった.いくらかのコインをポケットから出して贖った案内パンフレットに Desinfektion 独,disinfection 英,なる言葉が見られる.日本語では 「消毒」 であろう.その建物はいまアートサロンになっている.
コンスタンス・クラッセン,ディヴッド・ハウズ,アンソニー・シノット『アローマ 匂いの文化史』時田正博:訳,筑摩書房,¥2800, 1997 年
「衛生改革運動が時として社会改革運動と連動すること,あるいは望ましくない臭いの除去が望ましくない人々の除去に結びつくのは,そう驚いたことでもない.(略)
西洋では匂いと道徳の結びつきは長い歴史を持ち,身体的な悪臭と道徳的退廃はほとんど区別されなかった.『フィレンツェの街路が清潔になり悪臭がなくなれば,娼婦もいなくなる』という十八世紀の衛生改革者の発言がよい例である.西洋社会から『腐敗した要素』を取り除いて浄化するという運動は,ナチス・ドイツにおいてその極点に達した.ナチスすなわち国家社会主義者は,とりわけユダヤ人を『ばい菌を運ぶ』『人種的汚染の媒体』とした.」
「ファシズムの始まりはにおいから.ひと口ににおいというが,においは思想であり,政治なのである.においのことをうかつに論じてはならぬ.」と出久根氏は言っている.
ウィーン大学で 「現代日本社会論」 を講義していたころの著述とある.この本の中に「無臭の文化」という章があって,アラン・コルバン「においの歴史」山田・鹿島訳,新評論,1982 年が紹介されている.そこに「台頭するブルジョワジーは内なる除臭の欲望を労働者の悪臭に投影した」とあるらしい.
同じ章に,我が国の芸術に関するコメントとして,
「西洋が学ぶことのできなかった日本美術の一面:生活と美術が接触し,相互に融合していることである」,
「未分化で留まろうとするジャポニズムの力は,制作者と美の享受者の距離が近いことにもよる」,
「分化とシステムを指向する西洋文化は,西洋絵画や工芸の表現形態に近いもののみに感動し,人びとの生きている時間と共に流れていく芸術を理解できなかったのである」などと出ていて,江戸末期の文人画に傾倒する身としては,納得.
他の章も読むべし.
かつて,ウィーン中央墓地にモーツァルト,シューベルトらの墓を見に行ったことがあるくらいで,他家,他人の墓を巡る趣味は私にはない.書店で手にとったとき,本文の書き出しのところの 「旧東独時代,東ベルリンに入るのは大変厄介であった.鉄道利用者の検問駅フリードリヒシュトラーセ駅の薄暗い地下待合所で,しばしば長らく待たされたものである.再統一後,その - - -」 というのが目に入ったので買ってしまった.この経験がある方ならおそらく同じようになさるであろう.東京から帰りの新幹線車内で八割かた読んだ.どんどん深く,奥へ奥へと入って行くという種類の本ではない.ここで「フリードリヒシュトラーセ駅の薄暗い地下待合所」とあるのは,地下ではなく地上一階であったろう.そこが外の見えない囲まれた空間であったため誤解なさったにちがいない.
もう一度読み直そうとは思わないが,再度なにかの確認のために取り出すことがあるかもしれない.チェコ,ポーランドについての記述はあるが,ハンガリーには触れられていない.
作曲家のメンデルスゾーンは日本ではメンデルスゾーンだが,ドイツではメンデルスゾーン=バルトルディである.それがどういう意味なのか,永く疑問のままで放置していたところ,この本にその説明があり,両親がキリスト教に改宗したときからその姓を名乗っているとのことである.識る人は多くないのであろうが,フェリクス・メンデルスゾーンの姉,ファニー・ヘンゼルの音楽に私はいま惹かれている.メンデルスゾーンの活動拠点には旧東ドイツに含まれる地域が多い.ベルリンの壁がなくなって十年以上が経過した.壁崩壊後直ちに現地に移り住み,そこで研究している人が何人もいるだろう.関連の調査,研究成果がそろそろ姿を現わすはずで,私はそれを待っている.
『人名の世界地図』21 世紀研究会編,文春新書 154 によると,フェリクス・メンデルスゾーンが洗礼を受けたのは 1816
年,7 歳のときである.6 年後に両親も改宗している.このとき両親がバルトルディ Bartholdy と名乗った.このバルトルディという名は,フェリクスの母方の伯父が改宗してプロテスタントになったとき,ザロモンという姓を捨てて,キリスト教徒のように,キリストの
12 使徒のひとりバルトロマイ Bartholmai にちなんだ名,バルトルディと改めたことによるという.本人は生涯,フェリクス・メンデルスゾーンという名前を使い続け,Bartholdy
を付す場合にも Mendelssohn と Bartholdy のあいだにハイフンをつけなかったらしい.しかしドイツでは常に
Felix Mendelssohn-Bartholdy と,ハイフンつきで記載されていたようである.
ハーバード・クッファーバーグ『三代のユダヤ人,メンデルスゾーン家の人々』横溝亮一:訳,1985,東京創元社 という本にこのあたりの事情が詳しく出ているらしいが,すでに絶版になっていて,努力するも未だ入手し得ない*.* 2009 年の末,この本を愛知県図書館で見つけて読んだ.著述の基になっている資料の多くがドイツ語の書籍でなく,英語のものであることにはいささか驚かされた.Herbert Kupferberg, The Mendelssohns: Three Generations of Genius, 1972, Charles Scribner's Sons, New York. 原著者はニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人とある.
2005 年 8 月はトーマス・マン (1875-1955) 没後 50 周年にあたり,記念の行事が数多く行われた.トーマス・マンの墓はチューリッヒ郊外 Kilchberg の丘にあるとこの本にも出ており,著者は 1969 年と 1999 年の二回そこを訪れたとある.1999 年の春再訪の際には「夫人カーチャ (1883-1980) も追葬され,マンの墓石も夫人の名とその生没年を追記した新しいものに入れ替わっていた」(pp. 174-175) となっている.私の興味は本人の墓よりもむしろこの夫人 Katharina "Katia" Hedwig Mann (Pringsheim), (愛称はカティアで,カーチャは誤りであると言われている) の埋葬地にある.
2005 年 9 月,学会出席旅程の都合でポーランドの Wroclaw に泊まる機会があり,出かける前に "Let's Go, Eastern Europe", St. Martin's Press, 2002 で Wroclaw のところを見ていたら,そこの Jewish Cemetery, Cmentarz Zydowski, Ul. Slezna 37/39 に "contains the remains of - - , and Thomas Mann's wife." とあった (p. 489).Wroclaw 旧市街広場にある "i" で場所や行き方を尋ねたら,中央駅の裏側からせいぜい 1 km ほどのところであることが分かったが,墓地訪問を好まないので実際に行って確かめることはしなかった.カティアの父親,アルフレート・プリングスハイムはミュンヘン大学の著名数学教授であったが,ユダヤ系である.検索すると "geboren am 02. September 1850 in Ohlau, Schlesien- aufgewachsen in Breslau" などと得られる."Ohlau" は今の "Olawa" で, Wroclaw のすぐ東 30 km くらいのところにある比較的小さな町."1939 Flucht in die Schweiz" ともあり,彼も後にスイスへ亡命したとのことである.
夫人カティアの墓が二つありそうで,前者 Kilchberg のそれは我々日本人が見ても常識的なものであるが,後者の Jewish Cemetery in Wroclaw のそれはどういうものなのか,その経緯や理由を知りたくて Google で少しあたってみたが,何も出てこず,後者は "Let's Go, Eastern Europe" 以外での押さえができない.しかし父親の生地との関連からまんざら架空のものとは言えないであろう.埋葬というところまで考えると双方でどういうことになっているのかとさらにいぶかしさが増す.
この巻,終り近くに 「モーゼス・メンデルスゾーン」 なる節があり,祖父の哲学者,モーゼスは啓蒙運動のなかにいて,終生ユダヤ教に留まったが,周りから改宗の覚悟があるとみなされていたとある.その次の節は 「啓蒙ヨーロッパ諸国のユダヤ人改革」 であり,オーストリアでユダヤ人にドイツ風の姓名を名のることを強制する法律が出されていると紹介されている.ドイツ語で意味を取ると妙な名字がいろいろあると思っていたその疑問がこれで解消.「バルトルディ」 はそれとはもちろん無関係.
大部の本なので,読み通すのは大変.
鴎外の 「舞姫」 に紆るエリスと実在の Elise Weigert ないし Elise Wiegert.実在人物の,事実と異なる小説としての設定,ならびに鴎外晩年の心理的背景を虚実綯い交ぜに述べて行く手法に戸惑ったが,そのなかに面白さを見た.鴎外の転居歴から Elise を中流以上,相当な家柄のユダヤ人であったのではないかと推測している.
旅行社が募集するパッケージ旅行に参加することで三度のベルリン訪問がなされ,その枠内で特定の人に会い,調査もしているのには驚きとともに違和感をおぼえた.初回の訪独が 1990 年 7 月というのにも驚く.現地訪問は望みの実現であり,本書の骨子は 「舞姫」 を読み込み,国内にある文献にあたるという活動から出ているということのようである.サウンドオブミュージックのトラップ少佐をミュージカルの中身そのままに,愛国者と単純に信じているというのは頷けない.これについては別項,増谷英樹 「歴史のなかのウィーン」 が参考になる.また,『「舞姫」 −エリス,ユダヤ人論−』 荻原雄一/編著,至文堂,2001 年 5 月,ISBN 4-7843-0207-7,という本が出ているらしい.私はまだ読んでいない.
2003 年 5 月には Louisenstraße にある 森鴎外記念館の真向かいのホテル に泊まった.到着し一泊の翌火曜日 10 時前に出かけ,土曜日の午前に戻って一泊し,翌日曜日の朝ベルリンを発ったので,森鴎外記念館の内部を知らない.フンボルト大学の管理下にあるということだが,外観は旧東ベルリンのそれそのものであり,荒れ果てた感じであった (最近外側は改修されて荒れ果てた感じだけは無くなっている).
俳優座が加藤 剛を中心に 「舞姫〜鴎外の恋〜」 という出し物をやったらしい.その原作が 「小説鴎外の恋,永遠の今」 荻原雄一,立風書房,1992 年 3 月,ISBN4-651-66044-4,というものであるとのことが,あちこち見ているあいだに分かった.
ウィーンに行くのは 1982 年の夏以来なので,実に 20 年ぶりである.自分の頭の中が軽いような感じがして,ウィーン関連の本を何冊かまとめて読んだのだが,これには満足した.内容のすべてを把握できたわけではないが,読んでいてほんとうに楽しかった.幅のある連続体として歴史を捉えるその足並みに我々日本人にない着実さと知識人としての体力を見て少々落ち込むのだが,それをもあわせて愉しめた.
萩原能久 「昨日の世界:ウィーンという大学,Die Welt von Gestern: Universität "Wien"」 http://www.law.keio.ac.jp/popper/wien.html なるコメントが私にこの本を読む気にさせた.
これをやはりウィーンを訪れるに際して読み直した.最初に『「サウンド・オブ・ミュージック」 の時代』という章があり,トラップ少佐が愛国者に仕立てられていることなど,舞台や映画の筋書は現実と遊離したものであることが述べられている.このことは研究者には常識に属することのようである.副題をみれば,この本がどのような内容のものであるかを容易にご想像いただけよう.
「音楽は人生にはほとんど何の意味ももたず,ちっぽけな装飾にすぎない」という状態になっていることは「現代の精神的状況を反映」したものだという指摘から始まる.特定の意味を持つ音型は語彙そのものであり,かつては,教養ある聴き手ならそうした語彙集を内に保持していたという.通常の言語では伝達しがたい内容を伝えるための第二の言語として音楽が機能していたと順々と述べる.
初期のアーノンクールの演奏については私にはずいぶんと違和感があった.この本で言っていることとは裏腹に,ギクシャクした音楽であった.最近は,そうは思わなくなっている.変わったのはいつの頃からか,それはアーノンクールが変わったのか,それとも私が変わったのか.
それにしても現在のアーノンクールの演奏は,緻密な思考,研究と実践とが結び付いた成功例であろう.西洋人学者の体力と膂力には唖然とするばかりである.
翻訳には必ずしも感心しなかった.前後の文と意味のつながらない文がはさまっているという箇所もある.原文に照会したいと思うことがしばしばである.
「私達の古いヨーロッパ音楽は中世からバロックを経て古典派とロマン派に至るまで,人間生活の伴侶として,言語によっては言いあらわせないものを語るために,心の葛藤を示しその解決を助けるために,そして人間を道徳的により良くするために書かれたのです.そうしたことのために繊細な音楽言語が発展し,それらを理解するためには教養人はみなそうした音楽言語を学ばねばならなかったのです.」,「樋口隆一:"ミューズの道草",春秋社,1983 年 10 月」に紹介されているアーノンクールの言葉
アーノンクールの本ではやや解かりにくかった,音楽が知識人の言語であったということがこの本でよくわかった.中世人の精神的基礎がそこにあり,音楽が数学と同じようなものであったらしい.大学の自然発生状況と,ボローニャ大学とパリ大学の差,ウニヴェルシタスとコッレギウムなど,起源はその本質を表していると読み取れた.
とにかくも読んでいると,音楽を聞いているのと同じ,静謐さ,心地好さが感じられ,過去には真っ当な人がいたのだ,という感懐無き能わず.翻訳はぎこちない.原典を読むべし.
「グレゴリオ聖歌からバロックまで,今いちばん新しい音楽空間への冒険」とある."音楽を聴くにあたって,解説書を読むということはめったにない" とこのページのどこかに書いたが,この本はそれとは正反対.J. S. Bach あたりから年代を遡り,これまで親しんでこなかった領域に入るその音源を入手するガイドブックとしてだけでなく,歴史の底流にある人の思考,志向,嗜好にまで記述が及んでいて.しっかり深いところまで導いてくれる.共同執筆者個々のこの分野への思い入れが尋常でなく,読者にその一端でも伝えようとする気概に満ちている.西洋音楽史専門家の手になる著述より格段に面白いし,血も通っている.この本に接して遂には,モンテヴェルディ:歌劇「オルフェオ」 Claudio Monteverdi: "L'Orfeo"の記事に引かれて,イタリアはマントヴァ Mantova, Mantua に出かけ,さらには,ゴンヅァーガ家/エステ家 Gonzaga/Este との関連で,フェラーラ Ferrara に立ち寄ることになったほどである.
刊行が 1996 年とやや古いので,「今いちばん新しい」とは言いがたい.特に,その後 DVD が出ていることとの差が大きい.一千年というとてつもない時間経過を超越して,当時の演奏形態をいま把握させ得る映像の効能は論を俟たない.それらを観た後に読み返せばまた新たな納得が得られる.
皆川達夫「中世・ルネサンスの音楽」,講談社現代新書 472,1977 年 2 月,ISDN 4-06-115872-4, ¥420E
を補助的に傍に置けばそれでほぼ足りる.いま入手するなら,講談社学術文庫,2009 年 2 月,ISDN 978-4-06-291937-1, ¥960E
磯山 雅「バロック音楽名曲鑑賞事典」,講談社,2007 年 2 月,ISBN978-4-06-159805-8, ¥960E
こちらはバロックに限定されており,扱われているのはおよそ 140 年の間に作曲されたもののみ.
2000 年度末,国と地方の借入金残高は 645 兆円.単純計算で返済に最短でも 210 年かかるという.しかし,今後,景気が良くなっても悪くなっても,つまり金利上昇があれば,直ちにこの国は崩壊することを諄諄と説いている.この本を読むと若い人なら,早々に日本を逃げ出すにしくはないと思うことだろう.
共同体内部の同調を強制し,仲間内だけに経済的利益をまわすという社会体制がこうした無責任を生むことが鋭く指摘されている.pp. 22-23
岩波書店がこの程度のものを出していたのではこの出版社の先が思いやられる.前者は,いま不良債権があるのは事故でなく,それが常態であるという仮定をおけば,自ずから導かれる結論が述べられているに過ぎない.また,利息というものがどういうものか分かっていないと思われるふしがある.後者では逆に,その国が何でもって稼いで,その国民が生活を維持して行くのか,稼ぎがなければ財政再建などありっこないということが分かっていない.財が産み出されなけば消費もない.見かけは批判かもしれないが,どちらも時の治世者にとって都合の良い言論,それだけである.見方や推論の可能性を広く取り上げ,全体にわたって考察を巡らして結論が導かれているのではなく,個人の単なる思いがそれぞれに主張されている.論文集なら編集会議で「掲載否」となるはずのものではないか.少なくとも理学,工学分野ならこういうことでは通用しないだろう.
精神の強靱さとはどういうものか,一読了解できよう.評論の原点を教えられる.ある分野で,その中の人を拘束する権力と金権とが一旦併せ生じると,外部の一個人の精神力をもってしてそれを崩すということは至難であることも納得させられる.
文楽の位置づけ,そのすばらしさとそこに潜む差別など,これまで気付かなかったところを指摘され,いささかたじろいだ.
比較的老年になってから浸かっている書に,特に "いろはうた" を毎日臨書している,その周辺の,硯や筆などの用品に,惹かれてゆく経緯と雑感が記されている.納得できるところもいくつかある.素人がそういう世界に入って行き,本格にはまだ至っていない,あるいは,決して本格には至らないが,本人としては心して精進を積んでいる,という状態は精神の高揚,充実そのものであろう.今後,老年を長く生きるにはこうした道が好ましいこと,江戸末期に生きた人々になぞらえ得る.しかし,この本には心底から同意するには至らない.気取りが無駄を呼んでいる.もう少しふっきれないといけない.1936 年生まれならそういう年齢に達していよう.真の精神的,物質的裕福とはここに書かれているようなこととは違う.
表題そのものがこの本の内容であるから,そこに品格を求めるべくもないが,実にむなしい.嘆かわしいのは,ここに書かれている大学生それ自体もであるが,そういう人種を産み出した,著者および私自身を含む,一世代前の人達のふがいなさである.いま決して若くはないが,この歳であることをありがたく思う.いま大学生である人達と今後 20 年も付き合っていかなければならないとしたら,とても辛抱しきれないだろう.そうしなくても済むという安堵がある.ふがいなさの責任を問われたとしても,その折りにはもう生きてはいないという安心感もある.
宇佐美 寛 著「大学の授業」,東信堂,1999 年 12 月,ISBN4-88713-344-8, ¥2500E
というのを先に読んでいた.そこに指摘されている受講生の,1) 貧困な読み書き能力,2) 他人に対する無礼,不行議,3) たるんだ,だらしない行動,これらは実は一体の事項である,という点について学生の反駁を受けるくらいのことならまだできる.
・ 日本文化の特徴は 「貧困・流行・集約」 であると言い切っている.先の「大学生の常識」より深く,かつ的確に見ていると知られる.なぜ学問するか,という問に対して,"湧き起こる疑問を静め,自分が納得したいから",というのも快い.
・ オルテガの「大衆の反逆」を紹介したところ:「大衆人とは,自分の歴史を持たない人間,つまり過去という内臓を欠いた人間であり,したがって『国際的』と呼ばれるあらゆる規律に従順な連中である.--大衆人はただ欲求のみを持っており,自分には権利だけがあると考え,義務があるなどと考えもしない」,「このような大衆人が大量に発生し,社会的権力の座を占めたところに現代の危機の真相がある」でうなずいてしまった.過日「過去という内臓を欠いた人間」そのものを見てしまったからである.いまの大学,大学人にもこの指摘は広くあてはまる.科学者はその「専門主義」の野蛮性のゆえに大衆人の典型であるというオルテガの言そのものなのであろう.
古田博司氏の著書としてこれしか挙げないのは失礼なことであろう.「朝鮮民族を読み解く -- 北と南に共通するもの」筑摩書房,1995年 1 月,ISBN: 9784480056214 あたりが適切であろうか.それともフルタヒロシ氏と古田博司氏は別人格とすれば失礼ではなかったか.
週刊朝日,11 月 8 日号の書評欄,週刊図書館に池内紀の推薦文が出ていて読む気になった.英文学翻訳者が朝日新聞夕刊にいまも連載しているエッセイの過去一年半ほどをまとめたものらしい.帯に「極上エッセイ」とある.しかしながら,必ずしも感心しなかった.私が猫好きではないということからなのかもしれない.博覧強記と言えばよいのか,とにかく知識は豊富のようだが駄洒落に過ぎ,軽ろみということを誤解している.語るに落ちるの類ではないか.エッセイを読む意義は,もう一段,内側に自ずと導かれ,そこで考えが展がって,まだ生きているという愉悦にひたるということにあると思うが,この本にはそれはない.
この本の中ではないが,「猫舌三昧」の欄で『大根は尊敬すべき存在だ。擂り崩されておろしにされ、煮立てられて風呂吹きにされ、寒風の中に吊されて割干しにされ、重しをつけられて沢庵にされ‥‥他にもいろいろあるだろうが、これだけの変化に耐えうる野菜は類がないのではないか。』とあった.これが面白いか.それに私にはここで "変化" という言葉が使われていることに耐えられない.風呂吹きになったあとなお沢庵にされるのなら "変化" であろうが.山本夏彦「完本文語文」新潮社,を取りだし,いくつかのページを読んで口直しとした.
この本をエンタテイメントとして読んだ.各章個々逐一まずは納得した.が,読み終わって,むかし子供のころ, あるいはまたかなり大きくなってからもだったか,白昼映画館から出てきたときのあの 気分悪さ を思い出した.白日のもと,一瞬,眼の眩む思いとともに,ちょっとした車酔いのようで,唾が出るのだが飲み込みたくないという,あのときと同様の状況におちいったのである.しかし読後感はエンタテイメントそのもので,その中味は子供のときに見た嵐寛「鞍馬天狗」の映画と対比できるある種の爽快感が無くもなかった.
* 「鞍馬天狗 角兵衛獅子」 1951 年,モノクロ,91 分,監督:大曾根辰夫,脚色:八尋不二,出演:美空ひばり・嵐寛十郎・月形龍之助・山田五十鈴ほか.鞍馬天狗の原作は大佛次郎.
『日本語の「物」について』というところで,折口信夫(釋迢空)の 「死者の書」 を引き,モノに 「霊」 の字を当てているとの指摘があった.日本語の「物」は「物心」,「物語」,「物の怪」の「物「であり,「霊」の字だけでなく,「鬼神」,「魍魎」も当てられているとのことである.私は「ものつくり」という言葉を好まず,自ら使うことはないのだが,所属が機械工学関連なので,周りでは 「ものつくり」,「モノづくり」などとかしましい.そのうえ,大学の理念・目標まで,「ものづくり,ひとづくり,みらいづくり」ということになっていて,毎日じつに恥ずかしい思いをしている.その理由を自分でも解からずにいたのであるが,ここを読んで納得した.もともと「製造」,「儲かるように作る」,「売れる品」などとは無関係な語だったのである.それ以外にも「ものづくり」と聞くと 「手づくり」 という語がすぐに頭に浮かんで,「ものづくり」と「手づくり」とを言葉として同列に並べられないのである.「手づくり」の方には抵抗はない. もう少し言うと,「ものづくり」の 「もの」は「つくり」に対して四格であるが,「手づくり」の「手」は三格に近かろう.四格で使ってもよいのか.
万葉集の難訓歌のいくつかを解読した在野の研究者らしい.謙虚な人柄がにじみ出ている.「良寛に魅せられた人々」に数うべき最右翼として堀口大学を挙げるべきことをこの本で初めて知った.この本は「萬羽軒」萬羽啓吾さんからいただいた.
講演記録も掲載されていて,そこに『なお,後ろの方の皆様,私の発音はもう駄目でございますし,もしお聞き取りにくい場合には,どうぞ空いております前の方にご移動くださいまして,私を助けていただきたいものでございます.p. 154, 「歌人・会津八一の出発」』とあった.熱力学の講義をしている際に,受講している教室の学生に向けて,おもわずこの言葉を投げたくなった.
戸惑いを禁じ得ず,読み進めるのに抵抗があった.専門が皆目違う分野なので,研究者間でどういう付き合いをなさっているのか知る由もないが,通説を批判するにあたって,「なめている」という表現が幾度となく出てくるのには閉口する.『注釈書も古語辞典も,テクストをなめてかかっている』という具合である.タイトルの "丁寧に" というのにはそぐわない.やくざから喧嘩を売られているように思う人も少なくなかろう.全首を網羅する必要がある注釈書なら,百点満点であるわけはないが,それが仮に七十点なら,残りのところについて,自分の解釈を関連学会なり,論文集,書籍なりで淡々と発表なさればよいことである.あるいは,ご自分で新たに注釈書をお出しになるのもよい.七十一点のものができると予測する.九百年かかってようやく七十点に達したものなら,八十点となるまでにあと二百年はかかるであろう.少しずつでも進んでいればそれぞれに功績はあるのである.
歌意と連動した絵画的な表象を読み取ったと自慢なさっている.古今和歌集所収,凡河内躬恒の歌,道しらは たつねもゆかむ . . . の 道 がクネクネと崩して書かれているのは道に迷っているところを表したと主張なさる.書に接しての感興は,文意が与える意味はもちろんのことながら,まずは全体のバランス,調和から受ける美,さらに書き手の呼吸,気迫,どれだけ溜めに溜めたあとの筆勢か,などなど.優れた詩歌を天籟 (てんらい) というが,書の文字から読み取って納めればそこに韻,韵が生じていよう.内に受け取るのはそういうものである.籟は風の音もしくは聞こえてくる音のことである.人がつくったものでも天から聞こえるかのようであると言うのであろう.愉しむという趣きが現れている言葉である.古筆を眺める醍醐味はそこにある.我国の絵画には松籟と名付けられたものも多くあり,当然,松を含む景色が描かれているのであるが,その絵画からも韻,韵が発せられている.絵画ですらそうである.色紙に書かれた和歌を見て景色が浮かぶこともあろうが,あってもそれは脳内においてである.字の崩し方で景色そのものがディフォルメ画像のように埋め込まれ,そこに書の面白みを感じるなどというようなことはない.あったとしたらそれは近代の書.むすびで,筆者は毛筆を操れないと仰っているが,さもありなん.ただし,私より十四五歳ものとしかさで筆を持てないとは怪訝.
見開き直後の色刷りページで『侘しい秋の暮れにふさわしい,くすんだ色の料紙が使われていることにも注目してください』と仰るが,かなりの読者はここでふき出してしまうのではないか.「青丹よし」の岩緑青なる青と辰砂なる丹の朱,あるいは,青春・朱夏・白秋・玄冬を知らずか.奈良,薬師寺の三重の西塔,落慶法要の際の色目が東塔のそれとどれだけ差があるかを認識すれば,「くすんだ色の料紙が使われている」などとはとても言えまい.九百数十年経過した寸松庵色紙,文字が書かれたその時代にすでにくすんだ色合いであったのか.三重の塔も料紙も最初はきらびやかではなかったのか.この紀貫之の和歌についてもやはり絵画的に「をくらのやまに」の「をくら」が黒々と書かれていて,それも絵画的表現であると仰っている.では,「つらゆき」の「つ」が黒々としているはなぜなのか.単に墨を置く最初の文字であるからという理由なのか.「をくら」が重いのは,その上の出だし「遊 (ゆ) うつくよ」の「遊」に対応して重心を下げたと解釈できように.
勝手に語彙を本来の意味から改変なさるのも困ったことである.『古筆とは,平安時代から中世初期ぐらいにかけて芸術作品として書かれた仮名文の総称です』と定義なさる.書き手が自らを知識人もしくは能書家とする意識ならあったであろうが,その当時に芸術作品という意識があったか.三筆・三蹟ですら後世の諡号である.また,解析すると,としばしば出来する.工学に携わる者から見ると,統べる理論が明確にないのに解析というのは憚られる.自分の書いた文に,それも大量に,傍線を引くというのもいただけない.日本語書記史原論など評価された業績もおありの方なのだから,ここ数年の古典籍への興味は興味のままにして,本物の歌幅をひとつでもご自分で購い,静かにお暮らしになったほうがはるかに為世為人.
この書籍の問題点については上の「丁寧に読む古典」のところで述べた批判にほぼ尽きているけれども,今回さらに "そう思っているのは君だけだよ" という気がしたので敢えて付け足す.先ずは誰か真っ当な人について仮名の手習いを一年ばかりやってみれば,この本に開陳されている意見がどれだけ荒唐無稽なものか,ご自分で納得いただけると思う.
ここではひとつだけ,三井文庫にある寸松庵色紙 "おくやまに . . . ." の記述を挙げる.全編突っ込みどころ満載である.これは一例である.
『明るい望みをもはやもてなくなってしまった鹿は声を振り絞って泣き,作り手は涙を流して泣いて,悲しみをともにしているのがこの和歌の結びです.』 『「奥山にモミジ踏み分けなく鹿」という表現から浮かんでくるのは,思いをとげないまま恋の季節が終わってしまったことを悲しんでいる鹿の惨めな姿です.』 『「し可」の「し」は異常なほど長く,太く,そして右方向に傾いています.また,字源の面影がないほど小さく丸まった形に書かれることが多い「可」の仮名が「し」の仮名に寄り添うように点を延ばして大きく書かれています.筆者は,これらふたつの仮名から鹿のりっぱな角を連想します.角がりっぱであることは,体躯が堂々としていることを意味しています.その鹿が降り積もったモミジを踏み分けながら哀れな声を振り絞ってないている姿が目に見えます.』 |
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上に挙げた言辞から,小松英雄氏はここで鹿の姿を見ておられると知られるけれども,この和歌には鹿の声こそあれども鹿の姿はない.まして鹿の惨めな姿などない.さらに,「鹿が鳴く」のではなくて,「鹿が泣く」とおっしゃっている.そこまでのことか.日常生活を少しだけ外挿して秋の風情が詠まれているのではないか.もちろん,自分の身に引き写しての心情でないわけがない.鹿は春にも夏にも鳴くが,秋の鳴声はことのほかものがなしく,鳴声は遠くから届いても鹿そのものは見えてはいまい.当時の殿上人が自分の足でもみじ葉を踏み分けて行ったとも思われず,せいぜい牛車に乗って山裾へ近づいたというところであろう.歌人が生きた鹿を実物大で見たことがあるかどうかさえ疑わしいが,そういうことに拘る必要はない.場面は今の奈良公園ではない.ドロドロした性欲をここに読み取らなければ駄目であると言われても困惑するよりない.和歌がそういうものであるいうことになれば,それこそ新解釈といえるであろうが.
確かに,この色紙については,品格で最上位におかれるわけではない.若書きという感がある.しかし,そうであるからといって著者の新解釈と結びつくわけではない.それは,例えば伏見天皇宸筆 "伏見院御集廣澤切" * などと較べて言うのであり,書き手の気迫は漲っていて,ここにはっきりと秋のうたにふさわしい爽やかさが流れているのは疑いもない.一文字一文字も美しければ,連綿や空間的配置も美しい.三行目が絶妙である.色紙末尾の「き」の位置や大きさ,最後の一画の胆力もすばらしい.四行目出だしの「あき」との差をこそ見よ.
線が太いだの掠れているだのということだけが書ではない.文字列の含む意味に応じて,墨つぎ,用字,字体,筆運びの遅速,また太細ということならあり得る.それが絵画的な表象を持ち来らすと言い,「し可」の二字が鹿角の形象であると主張するのであれば,色紙の最下端にその二文字がおかれていることとの整合性を確保した上のことでなければならない.鹿が草を食んでいるなら角は水平,「踏み分け」とも対応しない.
ご自分の拠りどころは文献学 Philologie であるとのこと.Duden で "Philologie" を見たら,Wissenschaft, die sich mit der Erforschung von Texten in einer bestimmten Sprache beschäftigt" となっていた.「鳴く」を「泣く」と読んでこの定義に沿うか.
この本の惹句にある『現代人から見て単なる視覚的な効果を狙った表現としか解釈されてこなかった名品』という表現も笑止.論理矛盾であるうえ日本語になっていない.発行元や編集者もしっかりせよ.
* 2009 年 11月,東京国立博物館 「皇室の名宝−日本美の華」展,第二期「正倉院宝物と書・絵巻の名品」,第三章「中世から近世の宮廷美 宸翰と京都御所のしつらえ」に出品されていて,ご記憶の方も多いであろう.
音楽を聴くにあたって,解説書を読むということはめったにない.ブランドの紹介に堕しているものを読むのは愉快でないのもその理由のひとつであるが,自分の楽しみの種について他人から指図を受けたいとは思わないということの方が大きい.誰かが名曲・名演と言っているものばかり聴いて,芸大の学生じぁあるまいし,どこが面白いか.実演であれ,放送であれ,CD であれ,そのときどきに聴く機会を得たものについて,それぞれに面白さがあり,つまらなさがある.ライプチィッヒ中央駅の柱に貼ってある演奏会リストを着いた途端にながめて,その日の夕刻にどれを聴くかを決めるときの気持の昂ぶりを知らずや.ロンドンなら,情報誌 "Time Out" をとりあえず買い,トラファルガー広場,噴水の横にでも坐ってどこへ行くかをゆっくり決めればよいであろう.切符を買いに行くにも便利な場所である.ウィーンフィル,ニューイヤーコンサートのチケットを入手することだけが音楽の楽しみであるわけがない.夕刻ウィーンに着いて,シュターツオペァへ立見で入っても,得られる豊穰さはかわらない.音楽はすべて,古典としてではなく,いま生きている自分に係わる現代音楽として自分で聴くものであると思う.宝山の一方的享受者であり,音楽について素人である者の一態度としては,あるものに自分からこだわって機会を用意するより,自ずと得られた機会をそれなりに愉しむのが自然であろう.
この著者のここに挙げた二冊のうちのひとつは 「名曲名演奏」 と表題でうたっている実用書ではあるけれども,二冊ともに,従来のレコードや CD のカタログ相当というものとは一線を画している.ときたまにしろこれを読むと,作曲家の置かれていた時代の状況や,どういう演奏家がその曲を好んで弾いているのかを教えられたりして,面白さが増すということがある.自分がなかなかのものだと感心していたことに同様の賛意が示されていたり,逆に否定されたりしているのも悪くない.聴き落としている曲があることを教えられ,CD を探して聴いてみようという気持にもなる.著者の意向,生き方が文面にあらわれている.部外者,もちろんそれで何の差しつかえもないはずである,とは違う別の見方があり,音楽に職業的に係わっている人の思考がどのようなものであるのかを知ることができ,プロフェッショナルとしての矜恃がそこに見いだせる.見向きもされていない曲の良さに気付いたり,演奏家の復活を見たりしたときの著者の喜びが快い.
音楽評論/ジャーナリズム関係者には渡辺姓が多くて,しばらく下記の方々ともほとんど同一人と見誤っていた.そのひとつは上記後者と同じシリーズで出ている,
渡辺 和「クァルテットの名曲名演奏 - 四人が織りなす素晴らしき世界」(わたなべやわら)
音楽之友社,1999 年 8 月,ISBN 4-276-35143-X, ¥950E
業界内部事情寄りの記述が散見されて,そうしたことの鬱陶しさがあるが,弦楽四重奏 Fetish なので,ガイドブックとしてしばしば参照している.内部事情の続き は Blog でなされている.
別途,もう一人,
渡辺 裕「文化史のなかのマ−ラー」(わたなべひろし)
筑摩書房 ちくまライブラリー 48,1990 年 10 月,ISBN 4-480-05148-1, ¥1230E
著述の基本がおさえられており,文献も丁寧に示されている.難解なところがない一般書ではあるが,学術書としての内容を備えていて立派である.紹介だけでなく意見も述べられているが,偏っていないと思う.マーラーの曲を聴いて納得が行かなかったときにこれを読んでおくと,次の機会でたいてい何か得るところがある.
これをしっかり読むにはさらなる時間が必要である.良い悪いの判断は先のこととして,こういうものが日本人の著作として出てきたことを歓迎する.
前者と後者の内容に大きな差があるわけではない.一貫性があるといえば言えるが,それ以上に冗長であり,この二冊両方を読むほどのことはない.TV での「必殺仕置人」と同じく,一時間番組全部を見なくても,毎回最後の十分間だけテレビジョンの前に座ればすべてが諒解できる,それと変わらない.後者の第八章 "二一世紀の日本の前途" を読めばそれで済む.
経済が人間をつくるのではなくて,人間が経済をつくると前提を置き,すでに生まれ,教育を受けているものが今後を背負って行く,その "人間がだめになっている" ので,これからも行き詰まったままであると結論する.「倫理的な強さを今日の日本人に見ることはできない.p. 349」,「一般的に言えば,彼らは単に快楽主義的で,拝金主義的でわがままである.彼らは義務感がなく,無宗教であり,自分の国に対して愛情がなく,かつ神を讚える気持は少しもない.p. 355」などのその結論が大きく間違っているとは思わないし,そういう状況であることは確かだが,前提や論理展開は単純に過ぎよう.人間と経済が相互に影響が無いなどということはあるまい.バブル期の日本人がどういう人間であったかを思いだせば明らかであろう.元禄時代終わり1704 年以降の 150 年間が二一世紀の日本に同系視されていて,「人々は刹那的快楽にふけった.p. 351」とあるが,徳川時代後期の,儒,文人趣味の一般への拡がりは,著者の言う「倫理的な強さ」を基礎に置かずして成立していたというのか.
「日本人は追いつき精神に満ちており,その結果,儲け商売を企てることに極めて貪欲であることはよく知られている.人々のこの態度が現在の危機を引き起こしているように思われるが,他方においては,これを改善する機会を次々と失って,最後にはナショナリズムに助けを求めることが極めてありうるとみられている.p. 350」というあたりについては,翻訳に難があるものの,事態をよく見ていると思う.老年に差しかかり,自分に被害が及ばないとはいえ,ぼつぼつ覚悟しておかないといけないということならそのとおり.
米原万里「オリガ・モリソヴナの反語法」(ヨネハラマリ) ---> 続きのページへ
集英社,2002 年 10 月,ISBN 4-08-774572-4, ¥1890E
米原万里「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(ヨネハラマリ)
角川書店,2001 年 7 月,ISBN 4-04-883681-1, ¥1470E
重延浩『ロシアの秘宝「琥珀の間」伝説』(しげのぶゆたか)
---> 続きのページへ
日本放送出版協会,2003 年 9 月,ISBN 4-14-080814-4, ¥1700E
エクトアール・フェリシアーノ「ナチの絵画略奪作戦」宇京 頼三:訳
平凡社,1998 年 7 月,ISBN 4-582-82421-8, ¥1400E
本のタイトルを見るとそれこそ奇をてらったトンデモ本のように思われるが,中味は学術書に近い.参考文献などの書式もぬかりない.原著が Prinston University Press から出ているというところで気付くべきであった.
第 7 章:石油、石炭,天然ガスは生物起源ではない,というところを面白く読んだ.この件について著者は「トンデモ度 = 0」としている.横浜で国際会議があったときの,休憩時間だったか,一日の発表が終わったあとだったかに,数人で話をしていて,この本が話題にのぼったのでここに挙げておく.人類の今後の生活に大きく係わる重い内容であって,充分に検証されるべきことである.
歯切れの良い簡潔な文章を折り重ね,淡々と事実を明らかにしながら,著者の見解をも明確に述べるという高等技能が駆使されていて,読者を全く飽きさせない.それだけでなく,事の本質を見通しよく抉り出している.実に頭脳明晰.1927 年という一年のうちの真ん中あたり,わずか数ヶ月の間に顕現した事象がそれぞれに途轍もないことであったことを知らしめる.
邦訳本の帯には「リンドバーグが飛び,アル・カポネが暗躍し,ベーブ・ルースが打つ!」なる惹句.それらのうち,特に認識させられたのは次の二項目.広辞苑を見ると「面白い」という表現の原意は "目の前が明るくなる" ということであり,評価としての使い途では,"気持ちが晴れ,愉快である","興趣があり,趣向が凝らされている" とあり,これらどの意味でもこの本は面白い.
「チャールズ・リンドバーグ」(5月 ザ・キッド 第2章) "またヨーロッパのライバルたちに比べ,アメリカの飛行家たちにはまだ誰にも理由がわからなかった優位な点もあった.アメリカではカリフォルニア州で製造される航空燃料を使っていたが,このほうがきれいに燃焼し,燃費がよかった.一九三○年代になるまでは,誰もオクタン価のことなど知らなかったから,どうしてカリフォルニアの燃料が優れているのか見当もつかなかった.他国の機体が海の藻屑と消えた理由はそこにあった."
「嫌悪の時代」(9月 夏の終わり 第26章) 優生学が風靡していたのは実はアメリカでであり,それがナチスへと伝播したことが明らかにされている. "驚くべきことに,当時のアメリカにはクー・クラックス・クランをも凌ぐ凶暴な偏見の尖兵たちがいた.まったくもって異様なことだが,その不名誉な称号を授与されるべきは,学者と科学者から成るグループだった.二十世紀初頭から,多くの著名で学識の高いアメリカ人たちが固く信じ,時には取り憑かれたように信奉していた見解があった.それは,アメリカは国家を揺るがしかねないほど劣等な連中であふれ返りつつあり,至急何か手を打つべきだ,というものだった."
後者の方がはるかに中身が濃い.著者は美術社会学を専門にするという.これを読んでいて,画家の評価と研究者の評価とのあいだに共通点があることを感じ,身につまされるところも少なくなかった.在世時の研究者の評価は研究者間で暗黙にせよ厳然と存在するし,学術団体 (いわゆる学会) で,フェロゥとか名誉員というように目に見えるかたちでランク付けがなされているとはいっても,画家が置かれているような,一幅銀何匁という,金銭での直裁的な評価がなされているわけではない.江戸末期における「新書画価録」文久元年,1861 の紹介を見ると,この時代における画や書の評価がすでに資本主義そのものといえ,その資本主義の程度がいま現在よりずっと高いことに驚く.弟子よりも師匠が低いランクに置かれるということなど茶飯事であり,身分も関係ない.松平不昧公ですらそこから免れてはいない (大雅堂:小判十両,狩野探幽:小判五両,松平不昧:三十匁,千種有功:十五匁,芳野金陵:二匁).画家在世中の評価と没後の評価とがほとんど一致しないというのも,研究者と同じである.近年の画家は没後急速に評価を落として,他人を悲劇に巻き込む例が多いことが静かに指摘されている.「歴史というものは恐ろしく冷酷である」という言葉がなかなかに重い.研究者の場合には,生前全くというほど評価されず,死後何十年も経ってようやくその価値や先見性が表に出てくることの方がむしろ多いが,画家の多くももまたこれに該当する.
あわせて読むべきものとして:
小田部雄次「家宝の行方 -- 美術品が語る名家の明治・大正・昭和」 (オタベユウジ)
小学館,2004 年 11 月,ISBN 4-09-386136-6, ¥2200E
榊原悟「日本絵画の見方」(さかきばらさとる)
角川選書 371,2004 年 12 月,ISBN 4-04-703371-5, ¥1700E
内容に見るべきものがないわけではないのだが,読んでいて愉快でない.文章の品というか,格というか,それが見受けられないうえ,人物の風というようなところが怪しげである.題の日本絵画という言い方がまず気に入らぬ.日本画ではいけないのか.たしかに石井柏亭による「日本絵画三代志」というのがあるけれども,そのときは 「日本」 と「絵画」とのあいだで,息が一旦切れるだろう.目次十二章の配列とその表題にもバランス感覚を欠く.美術品の案内であるのに,何を尊んでの記述なのであろうか.思い入れはないのか.「鑑賞の場」などという言葉を大人が受容できるか.ここから取るべきものだけ取って,二度と開かなくてもよいようにメモだけを残しておこうと思う.
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